2019年02月28日

京都造形芸術大学に起きたハラスメント訴訟について

京都の美術大学で、卒業生が出席した公開講座で、性暴力や児童ポルノを題材に授業が行われた。
参加した女性がこのような授業はセクシュアルハラスメントであるとして提訴したというこの事件。
私は取材者ではなく、報道ベースでしか知らないので、この3つの記事を読んだ感想を述べたいと思う。

■性暴力や児童ポルノを題材に…大学の公開講座を「セクハラ」と提訴!美術モデルが怒りの会見
■「会田誠さんらの講義で苦痛受けた」女性受講生が「セクハラ」で京都造形大を提訴
■会田誠氏らにゲスト講義で自慰写真など見せられ「セクハラ受けた」 美術モデルの女性が提訴

まず、記事によると、この授業は公開講座であって、学位や卒業を目指す学生が卒業に必要な単位を修得する目的で受講するものではありません。あくまで、教養として、あるいは趣味として受講するものです。今回、講師として批判されている会田誠さんの作品は、エロすぎるもの、グロすぎるものが多いと聞いています。私は今回初めて知ったので、どの程度の知名度かは存じませんが、会田誠氏が講師であることを事前に告知されているのであれば、「ああいうポルノじみた作品を題材にするのだろう」という想像はできるのだから、現実にそのような題材・教材を用いて授業が行われても仕方がないものだと思っています。
まして美術大学における授業という位置づけならば、第一線の芸術家が行うのですから、エロであろうとグロであろうと、刑事法的には猥褻とされるものであっても、あくまでそれらの作品を題材にした学問なのだから仕方ありません。嫌なら受けなければいいし、授業を受けてから気づいたのであれば教室から出るべきだったのではないかとも思います。

これに類するものとして、例えば医学部の授業。患部の映像や手術の見学・実習などでは、例外なく、見たくもない場面を見なければなりません。法医学なら腐乱した死体もある。法学部では強制性交の罪に当たる事件を研究することもある。生物学などではヒトや動物の排泄物を研究するからそのような画像を資料として公開することもあるでしょう。そして美術大学で裸体を描くのであれば、局部をあらわにした裸の男女を見ることになるし、ポルノと評価されるものも教材として使うと講師が判断したのなら、その方針に従うべきです。

大学の授業である以上、そしてどんな授業であるかはあらかじめわかっている以上、どんな授業を行うかの選択は大学が招聘した講師の考え方次第で自由であるべきだし、卒業に関わる授業でないのならなおさらで、いちいち「不適切」と述べてしまうと、自由な芸術活動も研究もできません。したがって、上記の記事を読んだだ感想として、私は女性の請求は棄却されるべきだと思います。

しかし、私はその授業を受けていませんから、実は必要以上に猥褻な表現があったとか、ネットで拾ってきた児童ポルノ画像を使って性的欲求を満たすような授業だったとか、不快な顔をする女性を見て講師が喜んでいたなんて事実が出てくるかもしれません。要は程度問題だと思います。記事を読んだだけの私は、その「程度」がわからない以上、これ以上の言及はできず、その授業の一部始終を映像で見せられたとしても、結局は人それぞれのとらえ方次第だと思います。私は男性だから、女性が考えるセクシュアルハラスメントとはとらえ方が違うので、何とも申し上げることはできません。不愉快に思われたらすみません。



■大学のハラスメント対応窓口はきちんと対応したのか

一方で、大学のハラスメント対応を行う窓口は機能したのか、私はそこに興味を持ちます。

記事によれば、原告の女性は大学のハラスメント窓口に苦情を申し立てたとあります。

仮に担当講師が、いわゆる本当のセクハラおじさんだったと仮定しましょう。ゼミの女子学生には片端から手を出して、単位と引き換えに性的な行為を求めるような人が、女子学生によからぬことをやったとします。今回の場合、芸術とは名ばかりの、本当に不適切な教材を使って、多くの女性が羞恥心を抱くような猥褻な表現を繰り返して、本当に女性を不快にさせていたと仮定します。

ハラスメント窓口は、受講生がわざわざ通報してきたのですから、問題を起こす講師が、大学側の知らないところでヤバい授業を行っていたものと仮定して調査し、問題を関係者で共有し、限度を超えたものならば当該講師を処分しなければなりません。
しかし、記事を見る限りでは、大学のハラスメント窓口は原告女性の主張をスルーしていたように受け留められます。
なぜなら、当の会田氏は「寝耳に水」と表現しています。




大学のハラスメント窓口は、被害者とされる学生の側に立って、学生間のいじめや教授からの不当な扱いなどの通報を受け付けて、調査し、裏付けを取った上で当事者に指導するという建前で運営されています。しかし、現実のハラスメント窓口は、たいていただの学校職員です。ただでさえ通常業務で忙しいのに、イレギュラーな、しかも解決しにくい余計な仕事を持ち込まれたらスルーしたくなるに決まってるじゃないですか。それが普通です。「ことなかれ主義」である方が、職員にとっては楽なのです。

そんな状況下で、受講生が授業に文句を言ってきたら、職員は「あなたにも非があったのではないか」などと言い放つ方が簡単ですよね。

かつて私が慶應義塾を提訴したときなんて、まさにそんな感じでしたよ。大学の運営に問題があり、通信教育課程の部署に電話して「訴訟でもしなければ改善してくれないのか?」と聞いたら、女性の職員に「ど〜ぞどうぞ、好きなだけ訴えてください」と言われました。「ちゃんと調べて折り返し電話します」じゃなくて、「文句があるなら訴えろ」と言われたら、そりゃ訴えるでしょう。

また数年前、私は当時の2ちゃんねるに膨大な誹謗中傷記事を書かれたことがあります。シンガポールの運営会社を提訴して犯人を突き止めたら、その犯人は某私立大学の現職の教授でした。その教授の勤務先のハラスメント窓口に通報したものの、大学は放置したので、私はその教授と大学を相手取って訴訟を提起したことがあります。裁判所は「名誉毀損で違法」と判断した行為が歴然とあるのに、大学側は放置するのですから、たいていの大学のハラスメント窓口なんて、何も機能していない、ただのガス抜き窓口なんじゃないかと確信しました。

今回の事件で、きちんと確認しなければならないのは、京都造形芸術大学のハラスメント窓口において、通報が行われたら、誰がどの程度調べるかというマニュアルがあったのか否か。普通はそういうものが存在してるはずなのですが、マニュアル通り調べて、ハラスメントの事実確認ができたのか否か。そして問題解決の方法として、問題の講師に改善策を相談・要求するなどの事実があったのかどうか。

上記の会田氏のツイッターによれば、大学側は事実関係を調べず、講師本人に問い合わせもしていないことになります。
授業の内容について何らかの通報があった時、それがハラスメントなのか否か、誰かが苦痛を受けないか、社会通念上問題があるのではないかと、調査して改善策を講じるべきだと思いますが、大学はそれができていたのでしょうかね。

結局、問題解決能力も権限も無い職員が担当し、調べたふり、話を聞いたふりだけして放置するもんだから、当事者の女性が司法の判断を仰ぎたくなるのではないかと、邪推してしまいます。

京都造形芸術大学さん、エロ・グロでも芸術であって、セクシュアルハラスメントには当たらないと主張するのであれば、それこそハラスメントの事実をきちんと調べ、当事者女性にも真摯に説明した上で、胸を張って行くべきではありませんか。

もちろん被害者とされる女性が被害妄想のような人である可能性もあるかもしれません。だけど、事実関係きちんと調べずに、会田氏にも問い合わせせずに放置したら、そりゃ大きな問題に発展するでしょう。
posted by まつもとはじめ at 02:13| 神奈川 ☔| Comment(0) | 教育機関の不正・犯罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月05日

息子を東京医科大学へ不正入学「文科省局長を受託収賄容疑で逮捕」東京地検特捜部

■再び文科省で不祥事

ここ最近、森友学園、加計学園、記者へのセクハラ事件、日大アメフト、至学館大パワハラなど、不祥事関連で慌ただしかった文部科学省ですが、また出ましたね。

今回は国の私立大学支援事業の選定の見返りに、自分の子どもを東京医科大学の入試で不正に加点して入学させるという行為が発覚しました。

事件の概要については朝日新聞の記事を見ていただくと分かりやすいと思います。

文科省、佐野太局長を解任 受託収賄容疑で特捜部が逮捕

この記事によると、東京医科大学が文科省の官僚の息子を不正に入学させることによって、5年間で最大1億5千万円が助成されるというものだそうです。ただし、大学は目先の1億5千万円欲しさに不正に入学させたというよりは、「今後も文部科学省とよろしくやっていけること」の方が大きいでしょう。

そう、森友や加計を見れば明らかなように、権力を握っている役所の人たちや、その役人をコントロールできる人たちに忖度しよう、便宜を図ろうという気持ちは自然と湧いてくるものだし、一般に世の中は「持ちつ持たれつ」の関係でやっていくのは悪くありません。しかしそれが受託収賄を構成してしまうのであれば、決して褒められることではありません。

本来は適切に法を執行する立場の役人が、本来は選ばれてはならない大学なのに私立大学研究ブランディング事業を行う東京医科大学を選んでしまい、本来は日本の医療を背負っていくべき若者を教育する立場の医科大学が、本来は合格させてはいけない学力の乏しい若者を合格させてしまったのであります。

近年、少子化の影響から、大学は定員割れを起こしてしまうため、大学入試の方法は多岐に渡っています。学力試験のみを行う一般入試の他に、一般推薦、指定校推薦、AO入試入試など、学力が伴っていなくても、受験生の性格や将来性などをくみ取って合格させることがあるから、かつてタレント親子が引き起こした「替え玉受験」のような不正は起きにくなってきました。このような加点・減点の基準があいまいな推薦枠であれば、実際は不正な加点があったとしても、表面化しにくいのです。したがって、20年前は不正入試とされた方法が、今は様々な推薦入試によって適正となってしまったのです。


■医学部へ不正入学させたことは大きな罪

しかし、一般的な文系学部と医学部とはだいぶ違います。
卒業すれば、国家試験を経て90%は医師になれるという医学部においては、入学後6年間の授業や実習に耐えられるか否かという問題も出てきます。東京医科大学の今年度の入試は3535人が受験、214人が合格、倍率は16.5倍です。大学は「これだけの倍率をくぐり抜ける点数を叩き出せる学力があった」という前提でカリキュラムを組むのですから、不正に入学した場合は落ちこぼれる可能性が高いということになります。

一般に「落ちこぼれ」と呼ばれる人は、補習校へ行くとか、必死に勉強するなど、自らの努力で学力が向上する可能性があります。ただ、一般的な落ちこぼれは、入試で合格点を叩き出した人が、遊び呆けてしまって成績不振になるだけであって、もともと合格するだけのポテンシャルを持っているのですからV字回復の期待ができます。問題は入試で不正をした人物が落ちこぼれた場合、V字回復どころではなく、基礎学力を高めるところから始めなければならないのです。

そもそも能力が無いのにポジションを与えられてしまった人が、能力が向上して他の学生と同じように学ぶことができるものでしょうか。可能性ゼロとまでは言いませんが、普通に考えればダメに決まっているじゃないですか。

それでも、友人や教授たちの配慮があって、何とか医学部卒業に漕ぎ着け、予備校に通ってどうにか医師国家試験もパスしたとします。
だけど、そんな人が研修医を経て、本当に医師としてやって行けるのでしょうか。

私は総合病院で働いているキャリア10年以上の医師にインタビューをしたことがありますが、そんな人は目の輝きが違います。医学がたまらなく好きで、食事をしている時も頭の中は治療方法のことで頭がいっぱいになってしまっている人でした。
逆に、医師免許は持っているものの、悪い意味でサラリーマン的な医師を取材したこともありますが、ビックリするほど知識が乏しく、権威を振り回しているだけという残念な人でした。

医師は、看護師などのコメディカルと多く異なる点として、医療行為ができることが挙げられます。医療行為は医師が自ら必要だと思えば、合法的に切ることも投薬もできます。つまり、医療行為であれば、医学的に手順や方法が正しいのであれば、人を死なせても責任を問われない職業なのです。だからこそ、医師は人に尊敬されるし、勤務医であっても給料が高いのです。


■能力の低い人にポジションを与えることの危険

以前、京都大学ですさまじいカンニング事件がありましたが、同じ要領で東京大学の文系学部の入試でカンニングして合格・入学した人がいたとします。文系学部なら、人の生死に関わる国家資格とは無縁なので、卒業に必要な単位を得られる楽勝科目ばかりを選んで履修すれば、学力が乏しくても卒業できるかもしれません。
そんな彼は東大へ行ったことで、他の三流私大に通うよりは高度な勉強をする機会があったかもしれませんが、本人の基礎学力が低いという事実は変わりません。だけど、東大を卒業したという事実はもう消されることはないでしょうから、比較的有名な一流企業に就職できたり、その企業の中でも東大卒ということで重要なポジションを任されることがあります。

企業にしてみれば、「必要なときに必要な文献を収集し、様々な問題を適切に判断し、マルチタスクもこなせる人材で将来の幹部候補」というイメージがあるから東大卒を採用します。しかし、当の本人は「東大卒であれば他人と同じ仕事をしても給料が高いはずだ」という、実は優良誤認させるための手段として東大卒をアピールしているだけなので、会社としては不適切な人材を高い給料で雇用したことになります。
そう、彼を雇用した企業は、高い給料で人を雇い入れたのも関わらず、業績が低くなってしまうのです。

彼が現れなければ、三流私大の卒業生を雇い、彼らに研修や教育を施すことで、適材適所の経営を行うことができたのに、学歴という名の能力偽装に騙されてしまうのです。たいへんな機会損失です。

そう、今回の医学部不正入試は、能力の乏しい1人を合格させたというだけではなく、1人の合格レベルに達したはずの若者が不合格となって排除されてしまったのが問題なのです。本来は合格していた人物が医師になって助かる命や人の健康と、不正に合格した彼が医師になって人に危害を与える危険性を考えると、社会的に大きなマイナスとなるのです。


■文部科学省の官僚ゆえに罪は大きい

私は今回の事件について、受託収賄罪そのものよりも、不正入試に加担したことの方が大罪と考えています。
人の生死に関わる分野で、著しく学力の劣る者に資格や権力を与えてしまうというのは、実に恐ろしいことになりませんか。
学力が劣るということは、彼は自分よりも優秀な人材を蹴落とすことに躍起になり、足の引っ張り合いとなるのです。
このような事態にならないよう、一定の基準に大学に医学部を任せ、その医学部が定める基準に合致した入試問題を出題し、志願者を選抜した上で医師を養成するのです。

こう考えると、一周して森友学園、加計学園、記者へのセクハラ事件、日大アメフトタックル、至学館大パワハラ問題に再び行き着きます。
文部科学省で起こったこれら一連の問題は、共通して「権力を持った人やその周辺の人たちが、権力を傘に様々な悪事を企てた」ということになります。

こうして表面化するということは、まだ正義漢のある関係者が告発できるというところに一縷の希望があるということだと思います。
教育に携わる人たちは、膨大な予算に目を曇らせることなく、ぜひ適切な学校運営にあたっていただきたいものであります。



posted by まつもとはじめ at 08:59| 神奈川 ☔| Comment(1) | 教育機関の不正・犯罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月24日

失態をさらけ出したアメフト部不祥事会見─日本大学の広報担当が愚かな理由

日大アメフト部のタックル問題については、マスコミが大きく報じているので、あえて私が述べるべき新しい意見やコメントはありませんが、昨日の会見をネットの生中継で見ていて、日大の広報が最低な振る舞いをしていたので言及しておきます。

この会見は、言うまでもなく、「日大のアメフト部の選手が、他校の選手に反則となるタックルをして、怪我をさせたこと」についての釈明会見であります。真実がどうかはともかく、この会見の目的は「当該選手に行き過ぎがあったことは認めつつも、故意ではない」ということや「被害選手には謝罪しつつも、組織的な反則行為ではない」ことを説明するためのもので、いわばテレビ・新聞・インターネットメディアなどを通じ、大学のイメージを回復するためのイベントです。

その大切なイベントで、広報担当の職員がマスコミ各社に対し、質問を遮るとか、会見を切り上げるなど、失礼な言動を行いました。



ふだんは大学の良さや教育の素晴らしさを伝える私の立場からすれば、この会見で司会者となった日大の広報は最低です。
私は会見の現場にいたわけではなく、画面のこちら側で生放送を見ていただけですが、それでもこの広報職員は日大にとって、再び不祥事の火種になるので、もう二度と広報を名乗って出てくるべきではない、そして教育者という感覚も無ければ経営感覚も無いに等しいと評価します。



そもそも日大アメフト部の関係者は、暴行罪・傷害罪に値する事件を起こしており、「加害者」という立場であります。だから少なくともマスコミに対して憤る側ではありません。
また、日大は全国から7万人の学生を預かるマンモス校ゆえに、多額の私学助成金を受け、授業料を受けて教育サービスを行う公益法人であるのだから、少なくとも社会に対する説明責任を有します。
そして、広報としての基本的な職責は、「大学へ進学しようとする若者に、日大の魅力を伝えることで、受験者を増やし、学生数を確保する」ことにあります。一方、記者会見場にいるマスコミ各社の関係者は、記者であるだけではなく、受験生となる子を持つ親である可能性もあるし、メディアの拡散力もさることながら、友人・知人に口コミで記者会見の場にいた取材者・証人として、良くも悪くも日大の評判を伝える立場にもなりえます。

この会見を見る限り、日大は不祥事が起こったときの危機管理意識が薄く、不祥事の原因を究明して再発防止を検討することよりも、ひたすら鎮静化させることに注力していることがわかります。つまり、教育サービスを行う場で、何か問題があっても、明らかにしようとするコーポレート・ガバナンスが欠落しているということを意味するのです。
一方で、会見場で記者からの質問の内容を不当にコントロールしようとしたり、会見を終了しようとする姿も広報担当であるがゆえに見苦しく見えます。確かに記者会見では質問が重複したり、記者の質問が的を射ていなかったり、複数の質問を長い時間ぶつけるケースもあるので、注文をつけたくなる気持ちもわかりますが、それは「1人1問としてください」、「質問は簡潔におねがいします」、「質問は1分以内に」など、お願いベースの正しいコントロールの仕方もあるでしょう。しかし、それもできていない。面倒くさそうに、早々と会見を切り上げたくて仕方のない様子は、画面を通じると、より悪辣に映ってしまいます。

そして記者から司会の仕切りについて、「日大のブランド(イメージ)が落ちてしまう」と注意されると「落ちません!」と言い切る。
おいおい、ブランドイメージって、大学側でコントロールできるものじゃないでしょう?

本来、広報とは、各種メディアに対して、悪いイメージを持たれないよう、または良いイメージを報じてもらうための部署です。
だから、今回の不祥事について、会見を行うのであれは、「このような事件が起きたことは残念」、「しかし情報が錯綜しており、原因の究明には時間がかかる」、「結果としてケガをさせてしまったので、被害者の方には謝罪し、回復をお祈りする」、「大学は一丸となって再発防止に取り組む」と主張しなければなりません。嘘でもそう言うべきなのです。広報ならば、マスコミのしつこい質問攻勢があったとしても、不用意な発言をして切り取られて報じられないために、細心の注意を行うべきなのです。

最近の企業不祥事は、こうした会見で、「いかに無難にやり過ごすか」を研究したマニュアルみたいなものがあるため、会見が荒れることはほとんどありません。しかし、日大はそのようなマニュアルすら無かったということになります。

日大の広報が、なぜこのような愚かな行動をとってしまったのか。私には心当たりがあります。
教育ジャーナリストとして活動していると、学校の広報担当がいかに愚かなのかを知る機会がたくさんあるのです。
「広報」は、実は「広告発注担当」を兼ねていることが多いため、潤沢な広告宣伝費を扱う部署でもあります。つまり、彼らにとって「マスコミ」や「ジャーナリスト」のことを「広告代理店の営業担当」として接することが多いのです。だから横柄な態度をとります。
そう、日大は、ふだんからテレビコマーシャルや新聞広告、進学情報誌、ネットメディア、スポーツイベントなど、ありとあらゆるところに広告宣伝費を放出しているのです。また、日大芸術学部出身のマスコミ関係者も多いことから、マスコミを牛耳っているつもりになってしまうのでしょう。

だから広報担当にしてみれば、日大が記者会見というイベントを開き、そこにタダで入場させ、ニュースのネタを振る舞ってやっているのだから、あまりひどい質問はして欲しくないのです。
でもそれは広報担当が教育・経営のスキルがないからそう思うのであって、本来は「きちんと釈明会見を行い、これから受験を考えている若者やその家庭に不安を払拭してもらう数少ないチャンス」と捉えて会見に挑むべきだったのです。

「ピンチはチャンス」という言葉があります。不祥事は隠せば隠すほど改善する機会を失いますが、不祥事を明らかにして原因を究明することで改善につながります。

日大は大き過ぎる組織となってしまったので、こういうチャンスでもなければ改善することはなかったでしょうから、今後はまともな広報担当を出して、もう少しちゃんとした記者会見を行っていただくことを期待しています。




キタさんの肺ガン闘病記(免疫乳酸酵素でガンは治るのか)
posted by まつもとはじめ at 14:16| 神奈川 ☔| Comment(0) | 教育機関の不正・犯罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月11日

群馬大学の江本正志教授が懲戒解雇

群馬大学は、所属する江本正志教授の懲戒解雇処分を発表した。
一般に、学内の処分が広くマスコミに掲載されることは少なく、逮捕されたわけでもないのに実名が報道されるというのは異例中の異例。刑事事件でもないのにここまで大きく報道されるということは、きわめて悪質で、確実な証拠があってのことだと思われる。

江本教授は、5年前に一度、ネットを中心に大きく取り上げられたことがある。それは、彼が匿名のツイッターアカウントを使って、群馬大学の同僚教員の出身校である放送大学を批判したことから始まった。

まとめサイト
矢吹樹が放送大学を批判し、放送大学学長に見つかる→群馬大学の江本正志教授と判明

江本教授は、放送大学は通信制で入試はないから大学の存在意義や学歴の信頼性が乏しい旨を述べたところ、その誤解を解こうとツイッターで反論した岡部学長(当時)に対し、学長とは知らずに誹謗中傷と受け止められるような投稿を行い、それが学長と知るや否や自らのアカウントを削除して何事もなかったかのようにした事件である。もちろんこれを「事件」と呼ぶには些細な出来事なのだが、実は彼がツイッターで使用していた名前「矢吹樹」は彼のペンネームで、その名で自費出版をしていた。
その本は『大学動物園』(文芸社)といい、なんと本の内容は群馬大学の同僚教員や学生を中傷しただけの、稚拙なもので、私は定価で買って読んだが、本当にひどい本だった。
つまり、国立大学の教授でありながら、匿名の世界で職場の同僚や学生の批判をし、自費出版した本の中でこき下ろしただけではなく、同僚の出身大学を露骨に批判し、それをとがめた人物が学長とわかるとアカウントを消して逃亡という、見事に卑怯な方法をとったのである。
私は放送大学の卒業生であり、放送大学は名実ともに優れた教員とカリキュラムのある通信制大学だと知っている。放送大学の学生としては、本を読まずに彼の批判をしたくないため、彼の『大学動物園』を読んで反論しようとした。しかし、私は本の稚拙さに辟易してしまった。文章の企画もさることながら、論理が破綻している文章が多く見られたからだ。「著者は博士の学位を持っているが、このような論理性に欠いた文章ばかり書く人物が、はたして業績として評価される論文を書いているのだろうか」と、研究者としてのスキルを疑問視していたのだが、私が抱いた懸念は、今回の報道で明らかになった。
やはり、研究者と呼べるだけの、相応の力を持っている人物ではなかったのだ。

2012年に論文不正問題とツイッターでの露骨な誹謗中傷記事投稿が露呈したのに、彼を処分したのは2017年。実に5年の歳月を要したことになる。この間、不正な論文を作成した教授への報酬、そして本件を調査するために要したコストや、スキルの乏しい教員の指導を受けた学生の機会損失等、多大な損害を与えたことになるのだ。

最後に申し述べるが、大学教員はアカデミックな環境で活発な議論を行うことができるというのが社会の求める姿である。匿名でインターネットに他人の誹謗中傷記事を書き散らかすとか、匿名の著書で同僚の教員や学生をこき下ろすとか、このような事実が判明した時点で既に教員としての資質が問われるべきで、5年前の時点で処分を行うべきであった。
posted by まつもとはじめ at 23:49| 神奈川 🌁| Comment(0) | 教育機関の不正・犯罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。