2012年08月27日

学歴は現代のカースト制度なのか

学歴のことを論じ始めると、必ずと言っていいほど、こんな意見が出てきます。

まず、大学へ行くか行かないかについて。

「今どき、大学くらい出とかなきゃ就職できないでしょ」
「大学全入時代に大学へ行けないのは貧乏人かバカ」

そして大学へ行く選択をした場合の大学選びについて。

「マーチくらい行かないと…」
「旧帝大を出て初めて偉そうにできる…」

さらに、通信制をめぐる大学選びについて。

「誰でも行ける通信に意味なし」
「通信を大学と思うな」

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みなさん、こんな話を聞いたことありませんか?

「大学へ行こうかな?」とおぼろげに思って誰かに相談すると、まだ社会経験も乏しいはずの友人たちから、ビックリするくらいいろんな意見を浴びせられます。

私も一応、塾講師時代があるので、受験生が偏差値だの大学名だの、こだわる理由はわからなくもないし、愛するエール出版社が発行する島野清志『危ない大学・消える大学』では、偏差値や社会的な評価を数値化した一覧表が載っています。どうせ進学するのなら、どこの大学を出ておくのが最も良いのかという評価を掲載し、エール出版社の鉄板商品となっています。

危ない大学・消える大学 2013年版 (YELL books) [単行本(ソフトカバー)] / 島野清志 (著); エール出版社 (刊)
危ない大学・消える大学 2013年版 (YELL books)


私も過去に読んで、すごいなぁ…と思いつつ、この考え方に、ずっと私は違和感を持っていました。

私は大学進学予備校のようなところに行ったことがないので、実は大学の選び方なんてものはよく知りません。
早稲田や慶應がカッコいいのは知っていても、川崎の当時の底辺高校出身の私としては、「どこでもいいから行ければいい」という理由で立正大学の二部に入学したのですから、カッコイイかどうかの問題ではないのです。

その後、神奈川大学法学部へ入学した私は、同級生がやたらに大学名の話題をしているのに驚きました。
偏差値なんてものはほとんど意識していなかった私ですが、神奈川大学は偏差値からすると、「日東駒専」(日大・東洋・駒沢・専修)と呼ばれる大学カテゴリと同等だったらしく、「もう少し頑張れば六大学を狙えた」、「代ゼミ模試で早稲田の合格見込み80%だった」、「慶應の補欠まで行ったが合格には至らなかった」といった、逃がした魚は大きかった話を、散々聞かされました。

一方、私は神奈川大学法学部の、当時「B方式入試」と呼ばれた、小論文と英語だけで受験できるところを受け、補欠で合格したのでした。小論文には点数をつけることはできても、一般的な偏差値に換算することはできないでしょうから、どう評価していいのかわかりません。
翌年、赤本を入手し、自分が受験したときの情報を読んでみたら、同学部の偏差値は55くらいで、競争率は12倍だったことから、まぁ、そこそこの成績だったということになるのですが、直前に受けた模擬試験では偏差値25なんてすごい数値を取ってしまったことからも、私は少なくとも大学入試に合格できるスキルは持っていなかったことになります。

しかし、そんな私も4年間在学して、無事に卒業した。
偏差値カースト制度に照らし合わせると、私は日東駒専と呼ばれる偏差値水準を死ぬまで維持することになり、「六大学」とか「早慶上智」とか「旧帝大」、「マーチ」(明治・青学・立教・中央・法政)なんて呼ばれる偏差値区分のようなカテゴリに当てはめると、私はちょうど真ん中当たりに位置するはずです。

私はこの学校群の区分について、よく知りませんし、知る必要もないと思っていますが、どうも「マーチ」と比較すると私の「日東駒専」よりも「マーチ」の方が上位に当たるようです。

しかし、こんな質問をしたとき、みなさんは正しく回答できますか。

「日東駒専の大学教授とマーチの大学教授、どちらが優秀でしょう?」
「日東駒専の学生とマーチの学生、どちらが面白いでしょう?」
「日東駒専の学生が、受験し直してマーチの学生になったら頭良くなりますか?」
「マーチの学生が、受験し直して日東駒専の学生になったら頭悪くなりますか?」

私は単なる偏差値比較で、大学の良し悪しを決めてしまい、その格差が一生有効というのは何かおかしいと思っています。

まして、たかが入試偏差値だけの比較です。
「大学で何を専攻したか」、「優の多さ」、「どんな研究をしたか」じゃなくて、入学時の偏差値ですよ。

入試偏差値の良し悪しが一生の身分・階級を決めるって、何かおかしくないですか。
例えば18歳の学力が全てを決めて、その後の4年間、大学で何を学んだのかを与されずに階級が決まってしまうんです。

ある試験が人の一生を決めるというのは、一定の合理性があります。
やはり試験を課して、一定の得点ができるというのは優秀さの証ですから。試験で高得点が取れる人は、きっと研究もできるし、仕事もできるのだから、試験による階級制度は合理性があるのです。

しかし、それなら、偏差値を判定する代ゼミが階級を決めるってことですか?
大学入試センターによる試験の採点が、身分を決めるってことですか?

すると、大学に入れさえすればいいので、その後の4年間の在学は不要ってことですよね。

マーチとか日東駒専という階級社会・身分社会のようなものは、上位に位置する人にとっては面白いのかもしれません。しかし、こんなくだらない階級制度に一喜一憂するなんて、おかしくないですか?

こんな無意味な身分制度・階級制度って、私が「著書10冊以上は売れっ子プロ作家」と冗談を言っているのと大差ありません。
むしろ他人を巻き込んで、無茶な階級制度をごり押ししているだけ、大学の階級の方が害悪です。

私が在学していたころ、私の地元では、神奈川大学と関東学院大学とどちらが優秀か……なんてくだらないことで競り合っていました。
しかし、これって、昔はやった、「BE-BOP-HIGHSCHOOL」の愛徳学園と立花商業と城東工業と戸塚水産のケンカの強さ比べみたいなものじゃないですかね?

何だか、考えていることはチンピラ高校生のケンカの強さ比べと大差ないというのが、妙に悲しいのです。

みなさん、入試の偏差値って、そんなに大切なんでしょうかね??

この記事はこちらからの転載です。
posted by まつもとはじめ at 04:25| 神奈川 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 学歴と社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする