2021年08月01日

教育虐待をする親、された子に関する私見



このアベマプライムで報じられている「教育虐待」と呼ばれる子への過干渉は、昔から批判の対象になっています。

私が小学生の頃(1980年頃)は、昭和のアニメには「教育ママ」と呼ばれ、ザマス眼鏡をかけて子どもに学習塾へ通わせて…という典型的な人がいて、私の周辺でも、月水金はそろばん、火は習字、木はスイミング、土は補習塾と、あらゆるお稽古ごとをさせている家庭がありました。

私は学童保育は小学校1年生だけ、そろばん塾は1ヶ月だけ通ったものの、小学校以外の習い事を拒否したこともあって、特に干渉されることはありませんでした。塾などを拒否した代わりに干渉もしない、好きなだけテレビを見て、暇な時間は図書館へ行き、ある程度の小遣いを貰ってマンガを買うなど、自由にやらせてくれた家庭だったと思います。

そんな私は、中学を受験するという同級生に誘われ、「川崎予備校」という中学受験のための予備校のおためし講座を受講することになりました。期間は夏休みのうちの2週間でしたが、開成中学へ行けば東大へ行けるとか、大学附属の中学に入ればそのまま大学へ入れるという話に興味があったのです。

しかし、驚いたのは、おためし受講といえど、入塾テストのようなものがあり、そのテストの順位で教室の席順が決まります。私の席は最後尾。おためし受験だから最後尾かと思っていたら、初日にいきなり、ひとつ前列の男子に「おまえはビリじゃねーか」と嘲笑されたのでした。当時、小学校でそこそこの成績を誇っていたつもりでしたが、そういう仕組みだったことに驚き、自分が最後尾であったこともショックでしたが、ひとつ前列の男がほんの少しの点数の差で他人より地位が高いと思っていることに驚いたのです。

1日2時間、国語と算数の授業は、それはそれは気持ち悪いものでした。
毎日、難解な宿題(私立中学受験の入試問題)や応用題を出題され、それをやってこない者は怒鳴られてビンタされるのです。
それでもその2週間、通い続ければ何か面白みが湧くのかと思いきや、その予備校の粗さだけが気になり、なぜこのような暴力を受けてもこの学校に通い続ける連中がいるのかとか、教師にここまで抑え付けられてやる勉強に意味が見出せず、平然といじめをする者もいて、私は2週間のおためし期間満了と共にやめました。

当時、一介の小学生だった私ですが、「暴力で抑え付ける教育は、暴力的な子しか生み出せない」ということがわかったのです。私の同級生で、この予備校にしっかり通った人たちが4人いましたが、悲しいかなその4人は本当に暴力的で、小学校では「虐待は虐待を連鎖させる」を体現したような連中でした。

その川崎予備校の問題点は、ことあるごとに学校名を出さずに記事化してきましたが、コロナの影響で昨年廃校したと聞きましたので、実際の名前を出して批判しておきたいと思います。

私は第二次ベビーブームの世代です。「親は中卒の労働者」みたいな家庭が多かった時代で、「大学さえ行けば食いっぱぐれることはない」と思われていた時代でもありました。そこにつけ込んだのが、スパルタ教育で子どもに反復学習をさせて目先の学力を向上させ、何がなんでも私立中学へ入学させて結果を出すタイプの塾や予備校でした。

ただ、当時の私はずっと疑問でした。
「死ぬほど勉強させて目当ての私立中学に入学させたらその先も死ぬほどの勉強が必要なのではないか」

その疑問まさにその通りでした。
勉強に楽しさを見出せない子どもが、暴力で成績を向上させた場合、その先も暴力が伴わなければ学力は向上しないのです。
いや、100人の成績不振者のうち、ひょっとしたらきっかけが暴力だっただけで、本当に勉強に興味を持って向上する人が、2〜3人いるかもしれません。しかし、その2〜3人が「暴力的な教育こそ学力を向上させる」と思い込んだらどうなるか。いわゆる「生存バイアス」というやつです。「私はこの方法で生き残れたのだから、同じ方法でみんな生き残れるはずだ」という思い込みです。

そして、100人の成績不振者全員が暴力で成績を向上したものの、特別な2〜3人以外の、つまり残りの9割以上の者は暴力がなければそれ以上向上せず、しかも思春期を迎えて勉強をやめてしまうのです。

サンプル数が少なくて申し訳ないのですが、私の同級生で川崎予備校を経て私立中学に入学した人たちのその後の進路を聞けば、悲しいかな偏差知的には中堅クラスの大学名しか出てこなかったのです。小学校高学年の多感な時期に、暴力的な教育を受けたとしても、その先が保障されているという訳ではなく、どちらかといえば無難な学歴に落ち着いてしまったのです。

むしろ、勉強そのものがトラウマになり、大人になってから学ぶことを極端に嫌がります。
「うちは貧乏で勉強するチャンスがなくて、大学なんて選択肢も無かった」という人は、「放送大学で簡単な科目から始めよう」と、初歩から勉強しようという気になるけれど、「子どもの頃、早慶あたりにいけない奴はバカだ」と言われ続けてきた人は、放送大学なんて名前に触れるだけでも嫌でしょう? こうなってしまうのです。

ドラゴン桜というマンガ・ドラマが大人気です。私も好きだし学びの大切さが説明されているのもすばらしい。ただ、そのドラゴン桜に懐疑的なのも、「東大へ進学すればプラチナチケット」とか「東大以外は目指すな」という結論だけにとらわれる勘違い野郎が出てきてしまうんですよね。

大学名が人生を変えるのではありません。あなたが日々、何に興味を持って実践しているかで変わるのです。

で、廃校した川崎予備校ですが、40年前の暴力教育も、教育虐待なんてことが認知される時代の変化と共に、ここ数年はマシになったのかもしれません。しかし、コロナ禍で廃業したということは、時代の変化についていけなかったのが最大の廃業要因だったのかもしれません。

posted by まつもとはじめ at 15:11| 神奈川 ☀| Comment(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月24日

橘学苑の教員大量退職問題について

学校法人橘学苑(横浜市鶴見区)が運営する中高一貫校で、非常勤の教員が大量に退職している問題で、私もマスコミからコメントを求められました。フジテレビの「とくダネ」の報道を頼りに、ちょっと調べてみました。

「とくダネ」によれば、「新聞やテレビで6年間で120人が退職した」と報じられている一方、4月13日の保護者会では、「実際に辞めたのは6年間で63人」と説明。63人という情報が正しいとして、その退職者のうち他の学校や企業に採用が22人、本人の希望21人、家庭の事情12人、任期満了6人…といった感じだそうです。

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また、この学校は、中高一貫の学校なので、中学3年と高校3年のあわせて6年間の課程です。ここに900人の生徒がいて、教員数は80人とのことでした。
「教員の数は充足しているのか」という問題に対しては、中学校設置基準と高等学校設置基準によれば、生徒40人に1人の教諭がいればよく、法的には23人で満たすので、若干の誤差が生じたとしても、正規が40人、非正規40人、あわせて80人の教員がいるのですから、違法ではありません。

中学・高校の設置基準では、正規の教員のことを「教諭」、非正規の教員のことを「助教諭」や「講師」と呼びますが、今回の問題はその非正規教員の講師が、非常勤のまま雇用され、5年たったら正規雇用を求める権利を有するはずなのに任期満了として解雇されるという状況が問題といったところでしょうか。学校側は「任期満了は6人」と説明していますが、非正規講師として採用されたはいいけれど、先輩講師を見て、正規雇用の道は険しいと思っているからこそ、他の学校に移ったり、一般企業に転職するのではないでしょうかね。「非正規じゃ嫌だからやめる」という主張だって、見方を変えれば「本人の希望」だろうし、結婚や介護でやめる「家庭の事情」だって、給料が低いとか不安定じゃ結婚も介護も大変になるじゃないですか。
また、大学でも非常勤講師が実質的に大学教育をまかなっている例がたくさんあるように、「非正規からの正規雇用」というニンジンをぶら下げて、ブラックな学校運営を講師にまかせていて、給料やキャリアには反映されない学校行事に動員されていて、「はい、任期満了で退職願います」なんて言われて頭に来る先生もいそうですよね。

橘学苑がこのような状況かどうかはわかりませんが、保護者説明会で一方的に小岩利夫校長が閉会を打ち出すところを見ると、なんとなく理事長の意向が見え隠れします。そう、私学の校長って、実は経営側、つまり理事長には逆らえない関係にあります。ワンマン経営でセクハラ・パワハラが横行した大学がいくつもやり玉に挙がってきましたよね。
そして橘学苑は、創設者の子孫と思われる、土光陽一郎理事長が同校のトップを務めています。この方が、どういう方針で学校経営をしているのかは存じませんが、私が見てきた「しくじり学園」の多くは、同族経営だったり、学校の宣伝のためにクラブ活動に注力したり、偏差値の低さをごまかすために特別進学クラスを設けたり、スポーツで目立つことを考えてプロの指導者を厚遇したりと、まるでコピペのような学校運営になりがちです。

しかし、教育現場にいる人たちは、やはり生徒の日々の学習を支えることを大切にします。光の当たるスポーツ推薦組や特別進学クラスではなく、成績はトホホだけどまじめな生徒が大多数な訳で、そんな生徒たちにしっかりと勉強できるように指導するのが学校の本分だと思うのです。おそらく、生徒に寄り添ってがんばっていた先生が、正規雇用の道を断念したことを残念に思った生徒や保護者が声を上げたのではないでしょうか。

だってそうでしょう?
現場で良い仕事をしている人が、学校や社会をより良くしようとして生徒を指導していた人が報われない社会ってどうですか。
「どんな先生でもいい」、「安かろう悪かろうでもいい」と思うなら、わざわざ金と手間をかけて私学に通わせますかね。

また、校長が「私立学校なので私が判断した」と述べていたりもしました。誰を雇い、どういう教育方針で行き、誰を解雇するかの自由は確かに学校側・経営側にあります。私学なんだから、不服なら学校をやめればいいということなのでしょう。
しかし、説明責任はあるでしょう。なぜならそこらへんの私塾ではないのです。学校教育法の一条校なのです。学校法人は税制上優遇されているし、私学助成金も給付されているのです。経済的に困窮している生徒は就学支援金を使って入学するのだから、実質的な学校の予算は税金でまかなわれていると言っても過言ではありません。

非正規雇用が悪いとはいいません。しかし、非正規雇用するなら、先生たちに5年後のキャリアをしっかり組み立てさせてあげなければ、結局、ブラック企業と同じ構造になってしまうじゃないですか。生活に不安を抱えたまま、高度な仕事をさせられるという姿を、生徒たちに見せていいのですか。

あと、東京福祉大学などで有名になったワンマン・同族経営にありがちなのは、家族を雇用したり、腰巾着みたいな人を厚遇したり、セクハラのターゲットに正規雇用のエサをぶらさげたりと、やりたい放題の経営方針もあります。

橘学苑に何が起こったのかは私はわかりませんが、学校側はしっかりと説明し、教育者といっても間違うことはあるのですから、改めるべきところは改めるべきだと思います。



中学校設置基準(平成十四年三月二十九日文部科学省令第十五号)
 (一学級の生徒数)
第四条 一学級の生徒数は、法令に特別の定めがある場合を除き、四十人以下とする。ただし、特別の事情があり、かつ、教育上支障がない場合は、この限りでない。

 (教諭の数等)
第六条 中学校に置く主幹教諭、指導教諭及び教諭(以下この条において「教諭等」という。)の数は、一学級当たり一人以上とする。
2 教諭等は、特別の事情があり、かつ、教育上支障がない場合は、校長、副校長若しくは教頭が兼ね、又は助教諭若しくは講師をもって代えることができる。
3 中学校に置く教員等は、教育上必要と認められる場合は、他の学校の教員等と兼ねることができる。


高等学校設置基準(平成十六年文部科学省令第二十号)
(教諭の数等)
第八条 高等学校に置く副校長及び教頭の数は当該高等学校に置く全日制の課程又は定時制の課程ごとに一人以上とし、主幹教諭、指導教諭及び教諭(以下この条において「教諭等」という。)の数は当該高等学校の収容定員を四十で除して得た数以上で、かつ、教育上支障がないものとする。
2 教諭等は、特別の事情があり、かつ、教育上支障がない場合は、助教諭又は講師をもって代えることができる。


教員大量退職で神奈川県が調査へ 横浜の私立中高一貫校 産経2019.4.17 18:41
 横浜市鶴見区の学校法人橘学苑が運営する中高一貫校で非正規雇用の教員が大量退職している問題で、神奈川県の黒岩祐治知事は17日の記者会見で、学苑に県職員を派遣して雇い止めなどがなかったかどうかを調べると明らかにした。
 学苑の説明では昨年度までの6年間で常勤、非常勤講師63人が退職している。大量退職についての報道を受けて県が学苑に確認したところ、「ここ数年で一定の退職者が出ているが、新たな雇用も行っている」との回答があった。
 生徒の保護者からは学校の収益に不明瞭な点があるとの情報も県に寄せられているといい、黒岩知事は「どういう実態があるか調査していきたい」と述べた。


posted by まつもとはじめ at 06:37| 神奈川 ☁| Comment(5) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月04日

野田市教育委員会の愚行について

2019年1月24日、栗原心愛さん(10)が死亡したことについて、某マスコミの方から意見を聞かれたので、ざっとまとめておきます。

私の意見の前提となる取材は、全て報道によるもので、意見は私が過去に取材した似たようなケースをもとに述べたものであります。

まず、事件の流れを追うと、

2017年11月6日に小学校がいじめアンケートを開催し、このアンケートに「家族からの暴力を何とかしてほしい」と書いた心愛さんを翌7日に一時保護。ここまでは良かった。しかし、いつまでも保護する訳にもいかないので、翌12月に保護を解除し親族宅での生活を条件に保護を解除。ある意味、ここまでは仕方がないことかもしれない。

一連の経過を知りたいと思った父親(容疑者)は2018年1月12日に野田市に対して娘の書いたアンケートを見せろと要求。いったんは拒否したものの、心愛さんの同意書を持参し、市教委はコピーを渡した。

あれから1年が経ち、心愛さんが浴室で死亡した。

心愛さんの死亡について、一番悪いのは父親。それを見て見ぬふりをした母親。だからこの2人が逮捕されるのは当然。
ただ、問題なのは野田市教育委員会。

いじめに関するアンケートをコピーして親に渡したらどうなるか。
だって、犯罪被害者が書いた被害届を犯人に渡すようなものですよ。しかもその犯人は、これからずっと生活を共にする家族であり、衣食住を提供する側ですよ。物理的な暴力そのものは顔の傷とか見ればわかるけど、暴言やネグレクトなど、傷の残らない方法にシフトしたり、新たに先生に告げ口をしたら殺される恐怖を植えつけられるに決まっているじゃないですか。
その状況で書かれた同意書なんてあてになるはずありません。

被害者本人がどうにかしてほしいと言うのはよほどの勇気が必要です。勇気を振り絞って述べた彼女が1年経って死亡した。これは生命の危険を感じた時に、一番頼りになるはずの「親」、そしてその次に交流できる大人として「教師」、この二者に裏切られた子どもに、第三の道などあったのでしょうか。

私は小中学校で、同級生や先輩から壮絶ないじめを受けたことがあります。私は親に言っても、教師に言っても、解決することがありませんでした。なぜなら、一度は加害者に注意しても、二度目からは被害者に対して口止めをするからです。あれから30年以上経過していますが、今でも私はあの時の恐怖や絶望感を忘れられません。

一方、野田市教育委員会の職員にも同情すべきところはあります。
今回の容疑者たる父親は、モンスターペアレンツまたはクレーマーであります。こういうクレーマーは、あからさまな暴力は使わなくても、暴言や執拗な面会要求を行います。効力の有無はともかく、市長・市議会議員に通報するとか、訴訟だ弁護士を依頼するなど、連日のようにクレームをされると、職員にしてみれば「将来起こるかどうかわからない重大な事故(死亡とか)」よりも、「目先の事故(職員の能力不足が露呈したり、時間が取られてしまうこと)」を確実に防ぐ方が簡単なのです。ラクなのです。
教育委員会の職員、しかも事務局に常駐する職員は、いわゆる市の事務職員か、教員資格を持った教員からの出向です。子どもに対するトラブル対応はできても、その親に対する対応力は乏しいのが普通です。また、政令市などではトラブルに慣れた職員や市の顧問弁護士に依頼できる態勢がありますが、野田市くらいの規模では少数の職員がいくつもの業務を兼務していることがたくさんあります。

もともと要求されていない能力が必要な上、人材不足・人手不足の中で、目先の仕事を終わらせることで「解決」としてしまう気持ちもわかります。

だからといって、こんなことを許してはいけません。なぜなら、今回のいじめアンケートは、開示しちゃいけないことはスクールカウンセリングの基本中の基本で、本人が開示を希望していないものについてはもちろんのこと、開示を了解していると言われても、暴行犯人と児童の関係を見れば、家庭内でどのようになるか、想像がつかない方がおかしい。
大学出たんでしょ?
教員免許取れたんでしょ?
ヤバい親とかクレーマーの知識は少しくらい持っているんでしょ?
その程度の認識の人が、教育の現場にいて、教育委員会を組織していることについて、問題視しなければいけません。

公務員には告発義務がありますよね。その義務をきちんと履行する方向で、最初から警察に相談しておけば良かったのではないかと思います。


野田市教育委員会、虐待女児を“見殺し” 「いじめアンケート」回答コピーを逮捕の父親に渡す  専門家「軽はずみで非常識」

posted by まつもとはじめ at 16:52| 神奈川 ☀| Comment(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月03日

尾木ママ「男児置き去り事件で失言!」について

私は尾木先生と一度、「アベマTV」という番組でご一緒したことがあります。私ごときが本件について述べるのもどうかと思うのですが、教育ジャーナリストと名乗っている以上、意見を述べさせていただきます。

今回、北海道で起きた、男児置き去り事件について、尾木先生がブログで「置き去りそのものが真実なのか」と述べたことについて、ネットで批判を受け、サイゾーが記事にしています。

どうもおかしい!?自衛隊の一メートル間隔のローラー作戦でも見つからない!?
なんて
はっきりいってあり得ない
これは
置き去りそのものが
真実なのか
失礼ながら
疑いたくなってしまいます…
それほど
あり得ないことだと思います
日本の警察も自衛隊の災害救助隊も
極めてレベル高いです
あれば探せないはずないのではないでしょうか!?
それとも
科学では解明出来ない
「神隠し」
でしょうか!?
尾木ママ
本気で動揺しそうです…
皆さんは
どうお考えですか?


尾木ママ、北海道・男児置き去り事件で失言! 父親疑うブログが「無責任すぎる」と炎上(サイゾーウーマン)
 北海道七飯町の男児置き去り行方不明事件をめぐって、尾木ママこと尾木直樹氏のブログが物議を醸している。児童は3日朝に無事発見されたが、同日未明に更新されたブログで、尾木氏は「置き去りそのものが真実なのか」などとつづっており、発見の第一報とともにネット上では批判の声が噴出してしまった。
 男児は先月28日、父親からのしつけとして、七飯町の林道で車から降ろされた。ところが約5分後に父親が戻ると姿が見えなくなっており、そのまま行方不明に。児童は林道から約5キロ離れた陸上自衛隊駒ケ岳演習場内で保護され、軽い擦過傷や脱水症状があるものの、命に別状はなかったという。
 この期間に行われていた捜索ついて、尾木氏は「どうもおかしい!?自衛隊の一メートル間隔のローラー作戦でも見つからない!?」とのタイトルで昨夜ブログを更新。「はっきりいってあり得ない これは置き去りそのものが真実なのか失礼ながら疑いたくなってしまいます…」「日本の警察も自衛隊の災害救助隊も極めてレベル高いです あれば探せないはずないのではないでしょうか!?」と、暗に、父親の説明に嘘があるのではないか、父親が事件に関わっているのではないかと読める提言をしていた。
 この書き込みについて、ネット上では「不謹慎ながら同意見です」など、少なからず尾木氏に賛同する声もあったが、その後は「憶測で発言するのは問題では」「影響力のある人間が発言すべきことではない」「無責任すぎる」と批判が噴出。なかには「何でもかんでも首つっこみすぎ」「人前でしゃべらせるな」と、尾木氏自身に対するバッシングとも取れる書き込みまで散見される。
「確かに、男児の行方不明期間は7日目となっており、それでも発見されないことに、ネット上でも疑問の声が上がっていました。しかし、それにしても今回の書き込みは配慮に欠けていた。もともと歯に衣着せぬ発言がウリの尾木ママでしたが、今回ばかりは賛同よりも批判の声が圧倒的です」(芸能ライター)
 尾木氏の発言はたびたび炎上を招くことがあり、以前には芸能界に飛び火したことも。
「特に話題になっていたのが、NEWS・手越祐也とのツーショット写真が流出したAKB48・柏木由紀を痛烈に批判したことです。柏木本人、そして大手メディアも圧力を恐れてこの件について一切触れないことに、尾木ママは『自分で起こしたトラブル ファンへの裏切り行為に対しては 自分のアイドル生命かけてでも説明するのが当然でしょう!』と釈明を要望し、一部から称賛を得ていました。一方、狩野英孝の三股騒動でクローズアップされた加藤紗里については、『素直、お嬢様、不器用、素人さん、計算高くない、そんないい感じの人』と擁護を展開したことについては、ネット上で『なんで擁護するの?』『弱みを握られたの?』などと波紋が広がりました」(同)
 タブーを物ともしない尾木氏だが、今回の発言ばかりは失敗だったと言わざるを得ないようだ


私はこの件で、特にマスコミからはコメントを求められてはおらず、ブログ記事にもしていませんでした。
ですので、男児が無事に保護された後、全て種明かしされた上で、尾木先生の発言を批判する立場ではありません。

確かに尾木先生のコメントは、ギリギリの線を突いて、「親が故意に虐待死させようとしたのではないか」と思わせるような記事に見えます。
ただ、私が不思議でならないのが、尾木先生の文章が、何でこんなに稚拙なのかということです。
アメブロで自分のブログを運営している芸能人は、短文に改行を重ねて、無駄にスクロールさせる文章を書くものですが、尾木先生がこんな文章を書くのかと思うと、それはそれでビックリです。
ひょっとしたら、アメブロ用のライターが、尾木先生に成り代わって書いているのではないか。電話で簡単にやり取りしたことを、いいかげんに書いているのではないかと思うほどです。

サイゾーの記事が、尾木先生の「言い過ぎ」を指摘・批判するのはよくわかります。
100の虐待事件があって、そのうち99が本当に虐待であったとしても、1つの冤罪が含まれているかもしれないことは、報道の側にいればわきまえなければならないことです。だから、警察発表があるまでは、「親が殺してどこかに埋めたんじゃないか」と思っていても、口に出してはいけないのです。

私がテレ朝のコメンテーターに呼ばれた時、資料や当日の新聞を渡され、「この件に関しては十分な取材が行われているので、言及してもらっても構いません」、「この件は取材が十分ではないので、『このように思われても仕方がない』という、あいまいな言い回しにして欲しい」と指示されました。
だからきっと、尾木先生も「親は子どもを虐待したと思われても仕方がない」と述べたつもりでいたかと思うのですが、ある意味、「尾木直樹」いうブランド力が「証拠もないのに言い切ってしまった」ことになってしまったのかもしれません。
だとすれば、アメブロにありがちな、稚拙な文章の書き方ではなく、こんな風に書くべきではなかったのかと思うのです。

まつママ的コメント案
「警察も自衛隊もこれだけ捜索して、子どもが見つからないというのは、本当に不思議としか言いようがありません。私は事情を知っている訳でもないし、ここまでのニュースで断言することはできないのだけれど、こういう事態になると、両親がもっと何かを隠しているのかとか、もっと大きな事件なのではないかと勘繰りたくもなります。そんなことを考えたくなくても、そう思っちゃうじゃないの。でも、とにかく無事に帰ってくることを祈りたいと思います。ただ、一言だけ、親御さんには『絶対に子どもから目を話したらダメ』と言いたい。大切な子どもさんなんだから、どんなことをしても目を離しちゃダメなのよ。」

いつもの尾木ママの口調で、ここまで書いてあれば、言いたいことは伝わるはずと思います。

あと、アメブロのあの改行の多い記事の書き方は、何か軽い印象に見られるので、多用はひかえた方が良いと思います。
posted by まつもとはじめ at 21:47| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

幸せな進学とは何か

私が小学校の頃から納得できないというか、ずっと疑問に思っていたことがあります。

「正しい進学とは何か」

私が小学校5年生だった時、同級生の一部の人たちが地元の中学受験予備校に通っていることに気づき、初めて「中学校というところは、自ら望み、金と学力があれば地元の公立中学校へ進学しなくてもいい」ことを知りました。

そんな選択肢があるなんてこと、全く知りませんでしたから、がぜん興味を持ちました。

しかし、話を聞けば聞くほど頭にハテナマークが灯ります。

「ナントカ大学附属中学に進学すれば、ナントカ大学にエスカレーターで入学できる」
「ホニャララ高校へ進学すれば、中高一貫教育であの有名国立大学に入学できる」
「これからは競争社会だから、少しでも早く受験準備を整えていた方がいい」

こういう話を聞いて、私はすごく違和感を持ちました。

今、がんばってどこかの大学附属に入学したとする。そしてあまり勉強しなくとも、その大学に入学できたとする。そうしたら、大学生になってから困らないか?
今、がんばってどこかの有名進学校へ入学したとする。すると、自然と優秀になって、有名大学へ入れるようになるのか?
競争社会なのはわかるけど、早く準備を整えたから優秀になるって、ちょっとおかしくないか?

以前、「お受験は害悪」の記事でも述べましたが、私たちは他人に強いられる勉強は嫌なものだし、興味の無い分野について、点数が取れるというだけで努力をしようとは思いません。それでも進学校へ通っていれば、周囲ががんばって勉強するのを見て、落ちこぼれる恐怖感からそれなりの努力はするかもしれないけれど、面白いと思わないのに勉強に対する情熱なんてものは湧きませんよね。

ここで私の話。
私はいちおう法学部を卒業しています。大学院で、いちおう民事訴訟法を専攻しました。
わざわざ「いちおう」と述べているのは、好きで入学した学部だし、好きで選んだ専攻なのだけど、自信を持って研究をしたとか、大論文を書けるほどのスキルが得られたという訳ではないからです。
だけど、自分の大好きな分野を勉強したときは、試験に出るか出ないかに関わらず、とにかく全部勉強したし、穴があくほどテキストを読んだりもした。
大学院では別の教授から「松本君はあまり意味のないことばかりやっている」と批判されたことはあったのだけれど、指導教授からは「まぁ、せっかく入学したんだから、好きなことをやりたまえ」と言われ、民事訴訟法の論文をそっちのけで学校教育法や電気通信事業法を調べました。

その「無意味な研究」は、確かにほとんどが無意味に浪費されました。
2年で修了できる大学院を3年かけてしまったし、良い就職をした訳でもない。

だけど、私は自信を持って言えます。

「自分がやりたい勉強をした」……と。

だけど、無理強いされて、義務感だけで大学を出た人。とりあえず、修士を持っていなければ偉ぶれないからというだけで大学院へ進学した人。安定した職にありつくには大学教授がいいと思い、無理して博士を取った人もいるでしょう。
私の知っている人の中には、なんとか大学教授になったはいいけれど、その後、ろくに業績を出せないまま、いろんな人に軽蔑されている教員もいます。自分の能力が低いことを批判されたくないがために、必死になってライバルを叩くなんて人もいる。

私はふと思うのです。

本来、学問というのは、「いろんな分野のいろんな知識や考え方を収集して、その知識や考え方をもとに自分の考えを発表すること」ではないか。
この一連の作業を行うことができるのは、学校である必要はありません。自分の家、職場、図書館等々、どんな所属でも可能です。
ただし、大学という教育施設・研究施設が、高度に合理化されたシステムや制度を有しているため、研究の礎を築きたい人は大学を目指し、より研究を深めたい人は大学院を目指し、研究し続けることが可能な職に就きたい人が研究者(大学教員)を目指すのです。

すると、「ちょっと専門的な知識を持っていて、この知識や経歴を使って安定して食べていきたい人」、つまり「なんちゃって研究者」みたいな人は、本来的には大学へ来るべきではありません。そんな人が大学にいるだめに、研究をしたくしてしたくてたまらない優秀な人材がポストを得られないのです。

そこで私は問いたい。
大学で教員をされているみなさん、あなたは本当に研究がしたいのですか。
それとも、実は今までに投資した時間やお金を取り戻すべく、安定した職にありつきたいだけなのではないですか。


私は思うのです。
がんばって勉強すれば、大学院へ進学して、大学教授になれる。……なんて幻想を本当に信じている人、そして大学教授になった瞬間、研究することを忘れ、大学で権力を持つことに終始し、権威を振りかざして学生を従わせ、自分よりも優秀な研究者(ライバル)の粗を探すことに終始することになってしまうのではないでしょうか。

私の知っている限り、「がんばって勉強したぞ」と自覚・自慢している人に、優秀な研究者はいません。楽しい勉強を続けるために「がんばって金を貯めたぞ」という人はともかく、がんばって勉強したと自覚できてしまう勉強は、ほとんど身にならないはずです。
特に、「一生のうちで最も勉強したのは入試の時だった」と自覚している人は、もう学問が何たるかを語る資格が無いのではないか。

週刊誌に取材されるたびに、「最も良い進学とは何か?」と聞かれます。

期待される答えは、「文系なら国立大学の法学部へ行けば、公務員試験にも対応できるし、一般企業でもつぶしがきく」、「理系なら工学部を卒業して大学院へ行けば大手のメーカーなとに就職できる」……なんてものでしょう。

しかし、私はいつも「自分の適性に合った分野について、学びたいときに学べる学校が良い」と回答しています。

だってそうじゃないですか。
就職したいのなら、就職に特化した専門学校へ行けばいいのに、わざわざ大学で好きでも無い勉強をやる必要なんて無いでしょう?

世間体とか、一般論とかに踊らされて、「とりあえず四年制大学へ行けば安泰」とか、他人の目を気にして進学することほど、金の無駄遣いはないでしょう。

就職したいのに大学へ行って、就職できないことほど、バカらしいことはないでしょう?
就職できたとしても、最初から底辺社員要因となることがわかってて雇用されるって、きつくないですか?

「幸せな進学」……私の永遠のテーマとなりそうです。
posted by まつもとはじめ at 03:35| 神奈川 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする