2013年05月09日

「通信制は入試が無いから程度が低い」という指摘は正しいのか

通信制大学を選択すること、入学すること、卒業することについて、「そんな学歴は無意味だ」と言い放つ人がいます。
もしそんなことを平気で言う人がいたら、その人にこう言ってあげてください。

「オマエはバカか?」

あ、失礼しました。いきなりバカと言ってしまうと、その人の尊厳を傷つけてしまうことになるので、こう言いなおしてください。

「実情も知らずに学歴の価値を軽々しく決めないでください」

通信制大学は、いろいろな特徴を持つところがたくさんあって、一口にああだこうだと述べることはできませんが、通学課程の大学と比較・検討すると、大まかにこんな特徴があります。

1.入学するための選抜はほとんど行われず、学力試験は課さない
2.在学中、基本的に登校する必要がないので、教員の指導を直接受ける機会が乏しい


通信制といえども、いろんな学部・学科があるので、全てがこうだとは言えませんが、大半はこのように差異を明確にさせることができると思います。

したがって、通信制大学には入試が無いから、大学のレベルを偏差値で測ることはできません。偏差値を測れないということは、この学校に通う人は、頭の程度が低いということになります。
また、ふだんから大学に通う必要が無く、授業を受ける機会も少ないのだから、日々の勉強量が少ないというとこになります。
入試を受けず、教育も受ける機会が少ないのだから、卒業できたとしても無価値だという評価や判断は、それなりに合理的にとらえることもできるので、なるほど納得できます。
しかし、私自身、通信制の大学を卒業した経験を踏まえてみると、そうでもないような気がします。
通信制って、本当に無意味な学歴なんでしょうかね。


それでは「通信制は無意味だ」と言い張る皆さんに質問します。

例えば「偏差値60」といわれている大学には、本当に偏差値60の学生がいるのでしょうか。
そもそも、偏差値60という数値は、いったい何を担保するのでしょうか。

ものすごく簡略化して、分かりやすい例で考えてみます。
みなさんご存じの「早稲田大学」が偏差値60だとします。学部・学科による違いや誤差は全く無いものとして、とにかく早稲田大学は入試問題を解いて、偏差値60以上になる点数を取った人でないと合格しないと仮定します。

すると、早稲田大学の一般入試をくぐり抜けてきた人は、入学試験の段階で、全員が偏差値60をクリアするべく、高得点を記録してきたということになります。入学後、その学生が怠惰な生活をしていたとしても、入学当時に一定レベルの偏差値をクリアできたのだから、「やればできる子」、「一瞬だけでも日本全国の人たちが参加する受験生社会で上位になれた子」という経験則が成り立ちます。

つまり、この経験則は、「早稲田大学一般入試合格」という資格・ライセンスともいえます。
英検1級ホルダーであれば、「少なくとも合格時にはものすごい英語力があった」、「ネイティブ並みに英会話ができる」という経験則が成り立つように、早稲田大学合格とは、合格時の学力を担保することになります。
「ある時期、一定の試験で一定の点数を取れた」というものと仮定すると、同様のものに、運転免許、司法試験、医師国家試験などがあります。
だから、経験則としては、運転免許を持っている人は、ペーパードライバーの期間が長かったとしても、思い出せば運転できるぞと思われる訳です。確かに単なる素人とは違います。

さて、その早稲田大学の入試が、出題範囲が定められ、レベルが一定で、かつ一定の点数以上を得点した人だけが合格するとしたら、その合格歴というものについては価値があります。
そう、「一流大学合格歴」というのは、この要件をクリアした者に与えられる学力を量るライセンスなのです。

しかし、今どき、一般入試だけ選抜を行う大学は珍しいですよね。

例えば、附属高校からの入学、指定高校からの推薦、一般推薦、AO入試、社会人推薦、帰国子女向けの入試等々、偏差値では判断しにくい、実に多様な入試方法が行われています。

早稲田大学では、入学者を調べてみると、一般入試とそれ以外の入試で入学してきた人たちが、概ね4:6になるそうです。つまり、早稲田大学の学生が100人いたら、60人が一般入試を受けていないということです。

早稲田大学は、あの難しい一般入試を通ったからこそ価値があるはずなのに、実は6割の学生がそうではなかったのです。
これがランクの低いとされる私立大学だともっと顕著です。2:8という大学も多いはずです。

そして、一般入試を経てきた人と、それ以外の人を比較すると、学力に明らかな差が出てきます。就職活動の際、企業もその実情をわかっているため、かつては大学名だけで学力を推定して採用していた企業が、学力試験を課すようになったとも聞きます。

つまり、「有名大学に入学・卒業した」という経歴は、確かにその人の優秀さを量る材料にはなるのだけれど、一言でいうなら、「アテにしちゃダメ」なのです。

「早稲田の附属高校を出たのなら、高校入試の時にがんばったのだから優秀なはず」

こう言いたい人もいると思います。
確かに、高校入試で他人より秀でた成績を残したから、早稲田高校に入れたのは事実でしょう。だけどそれはあくまで高校入試の問題であって、大学入試できちんと戦える実力があるなら、早稲田の附属高校に入る必要はありません。それどころか、「附属校出身であれば、大学入試では一般入試よりも楽に入れる」と思うから附属高校に入りたがるわけです。
これと同じ現象は、多くの大学で起こっています。
私が在籍した立正大学でも神奈川大学でも、附属高校から入学した人は、明らかに学力不足と感じました。法政や慶應の附属高校から大学へ進学した友人たちも、「一般入試組との差は歴然としていた」と述べていました。
早稲田大学への推薦入学が確定していたはずの高校生が書類上のミスで無効となってしまい、改めて一般入試を受けても歯が立たなかったというエピソードも聞いたことがあります。

つまり、同じ大学の看板を背負っていたとしても、担保される学力はまちまちで、入試の方法によって個人差が激しいのです。

この記事の、これまでの話を聞いても、それでも有名大学に入学した個人を指して、偏差値が高いと評価すべきなのでしょうか。

「いやいや、有名大学は教授が素晴らしいのだ」

え?本当ですか?
私がかつて在籍していた立正大学文学部二部地理学科には、早稲田大学の教授が非常勤で来ていましたよ。
すると、立正大学文学部二部は、早稲田と同じレベルと評価していいのでしょうか。
私の知り合いで、神奈川大学教授から明治大学教授になった人がいましたけど、つまり明治大学は神奈川大学と同じレベルってことですかね?

ここまで読んだ方であれば、私の「一般入試」と「それ以外の入試」の学力差についての私の疑問を、大筋で理解してくださったと思います。

すると、入試を経ずに、学びたいと思って通信制の課程に入学した人の学力は、いったいどういう評価を受けるべきでしょうか。

一般入試を経ていないという点では、通信制の入学者は、通学課程の推薦入試と同等といえます。
だけど、推薦入試の資格を得るためには、高校にまじめに通って、それなりの成績を残さなきゃいけない訳だから、ほぼ無試験の通信制への入学者と比較すると、学力の差は歴然としているともいえます。

こうして話してみると、学力というものについて、有名大学の看板を背負うことと、実際の学力の差異が、だんだんわからないものになってきますよね。

ここで、「そもそも」の話をしてみます。

そもそも、大学に入学するために「入試」というものが存在する理由は何なのでしょうか。

それはズバリ、「大学の授業を理解するための基礎学力があるか否かを量るため」です。

英文学科に入学したのに、中1レベルの英語力が無かったら授業が進みません。
法学部に入学したのに、中学で教わるはずの三権分立とか日本国憲法とかを知らなかったらそこから教え直さなきゃいけません。
高度な微分積分を学ばせるのに、四則計算(加減乗除)もできない人を入学させたら、教育現場は疲弊します。
薬学部なら化学式の基本的な理解、物理学科ならニュートン力学……etc。

つまり、「いくらなんでも、うちの学部に入るのなら、これを知らなきゃダメ」という知識の有無を問うのが入試なのです。
だから、一般入試で知識量を問うのも理解できるし、推薦入試で学問に対するマジメさを面接で確認するというのもわかります。AO入試なら思考の柔軟さを見て、知識不足を拡充できるか否かを判断するのです。
でも、最近はその基礎学力すら怪しい学生が入学してきているなんて話もありますよね。

それでは、通信制大学のように、いわゆる学力選抜による入試を必要としない学生は、どう評価すべきなのでしょうか。

「1単位でも修得した時点で入試に合格した者と同じととらえるべき」

これは、例えば「慶應大学経済学部の通信課程で1単位取った人が、慶応大学経済学部の通学課程と同じだから偉いので讃えよ」という意味ではありません。
そもそも大学に合格しただけ、入学しただけの人について、偉いとか頭イイとかの評価をすべきではないのです。慶應の通学課程に合格した人も、通信課程に合格した人も、大学から「学ぶための基礎学力はある」と評価されただけに過ぎないという意味です。
だから、入試に合格しただけではなく、やはりその大学の授業を受けて、単位を修得してこそ、その大学に在学したこと、その大学へ行けるだけの頭脳を持っていたことを証明できるのだと思います。
そして、通信制について言うならば、入学したばかりの0単位の人が、最初の1単位を修得するということが、実はものすごく大変なのです。だって、入試を受けずに入学したのはいいけれど、ほぼ独学で大学の学習についていかなければならないのです。0単位の状態から1単位修得済にするというのは、100単位を120単位にするより、遥かに難しいのです。
だから、その最初の1単位を修得した時点で、「その大学で学ぶための基礎学力はあった」と評価されるべきだと思います。

さて、同じ大学を卒業しても、人のために頑張っている人もいれば、自分の利益のために他人を蹴落とす人もいます。大学に行けなくても、または大学を中退しても人のためになる人はいます。大学を卒業しても、犯罪か犯罪ギリギリのことに手を染めて、何の痛みも感じない人もいます。
本当の評価って、偏差値がものすごく高いかどうかってことじゃなくて、「どれだけ社会のためになったか」ですよね。もちろん、「善行」そのものが良いのか悪いのかは歴史が判断することでもあるのですが、少なくとも「偏差値の高い人殺し」とか「東大出身の性犯罪者」なんて人は、いくら頭が良くても評価しちゃダメな訳です。
こうして理屈を積み重ねて考えていくと、私は何が偉くて何が低いのかについて、「学歴」とか「偏差値」、「通学」か「通信」かなど、実にくだらない物差しで量ることが、いかに愚かなことかと思い知らされるのです。
そもそも、大学に入るときの偏差値や入試の有無だけで人の価値を決めようとするって、こんなあまりにも程度が低いのので、私は個人的に付き合いたくありません。
しかしながら、大手予備校が毎年偏差値をはじき出し、大学のランキングなどを作っているうちは、この全く無意味な尺度にしばられて一喜一憂する人たちが絶えないので、改めて申し上げます。

「入試を必要としない大学教育を蔑むような人はバカ」
「実情も知らないで学歴の価値を軽々しく決めるような人は愚か」


大学は、最先端とされる教養を学び、それを社会に役立てるために存在します。
そして、その社会に役立てることができる人を養成するために大学教員が存在します。
よって、学歴によるカースト制度を作るために国が税金を投入しているのではありません。

もし一流とされる大学を出て、私が述べるこの理屈がわからない人は、その一流大学はとんだ看板倒れ大学であると断言できます。このような社会の要請を無視して、ただ試験で点数が取れるだけの人を優秀な学生として、平気で卒業させてしまうのです。
私は一流とされる大学を出て、または貴重な国費を投じて養成された人物が、偏差値やランキングにこだわっているとすれば、そしてその稚拙な意識が大学経営に影響を与えているとすれば、その大学こそ、名実ともに「バカ田大学」であるといえるのだと思います。

この記事を読んで不愉快になった方には、心から謝罪しておきます。
不愉快になったということは、私の言う通り、バカ田大学出身の方だと思いますので、心より哀悼の意を表したいと思います。
posted by まつもとはじめ at 00:51| 神奈川 ☁| Comment(14) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
確かに通信制の大学の在籍者は学力のばらつきが大きいですよね。ただほとんどの通信制の大学(放送大学を含めて)は卒業はなかなか大変と聞いています。私も一度、放送大学を卒業していますし、現在も別コースで全科履修生として在籍中ですが、単位修得はそれほど簡単ではありません。それに通信制の大学にはいろいろな目的で在籍している人がいます。例えば「教職を取るために単位を集める。」学位授与機構で特定の学士を取得するために単位を集める。」「准看護師から正看護師になる通信制の学校の単位を補間するために放送大学に在籍する(表現が不明確かもしれません)」などです。まあ、通信制大学のことを「そんな学歴は無意味だ」と言い放つような人を「夜郎自大」というのでしょうね。
Posted by tera at 2013年11月11日 13:55
続けてのコメントになりますが、通信制大学には、卒業が極めて難しい大学と、逆に卒業が極めて易しい大学があり、確かに卒業率100%というような大学は企業の人事担当者が首を傾げるかもしれません。卒業が難しすぎるのも???で、私も通信指導の添削の文章があまりに失礼で卒業を断念したという大学もありました。

NHK学園卒業->放送大学卒業、というような学歴なら能力は問題なしと見ますが、企業の人事担当者は「人間関係は大丈夫かな?」と思うかもしれません。
Posted by tera at 2013年12月13日 21:35
teraさん

いつもコメントありがとうございます。

私からすると、「大学を卒業した」という事実で、人の優秀度が測れるとは思っていません。

例えば、卒業率では極めて厳しいとされる慶應大学の通信を卒業した人が、人間的に素晴らしいとか、リベラルな発想を有しているとは思えないのです。
卒業したはずなのに、ビックリするくらい、狭量な考えを持っている人も多かったりもします。

それじゃ通学課程の方はましかというと、入試そのものにパスするスキルはあるものの、やはりアホなんじゃないかと感じる人もいます。

「学問を嗜んだ」というのであれば、他人の言っていることを最後まで聞いて理解すべきだし、批判するのであればきちんと調べて反論するための材料を揃えるべきだし、他人から尊敬されたいのであれば、他人に対するレベルの低い人格批判などをすべきではありません。

こうした人としての基本的なスキルの無い人が、入試学力や単位修得スキルだけを向上させてしまい、そこに「学歴」がお墨付きを与えてしまうということに、私は違和感を持っています。

Posted by まつもと at 2013年12月13日 23:40
偏った人というのは、本人がそれをどう自覚し、また周囲がどうマネージメントして方向付けするかによってずいぶん結果が違ってくるように思います。

アインシュタインがアスペルガー症候群であったのは有名な話ですし、そこまで行かなくても、私の知り合いにも、やや人間関係は不得手で自営の道を選ばれたのですが、大企業のエンジニアさえ歯が立たないほどの高度な技術を持った電気機器の修理屋さんになられた方もおられます。

ところが、本人が自分の性格の欠点を自覚せず、周囲もしっかりマネージメントしないと本当に「慶応の通信を卒業したことを自慢するだけの偏狭なだけの人」になってしまいます。

もっと極端な例では優秀なプログラマーとされていた人間が同じマンションの女性を部屋に引きずり込んで殺害してしまった例もありましたね。

そこをどう自らをコントロールし長所を生かして、欠点を自覚するかが偏った人の生きる道ではないかと思いますし、私自身、そう心がけています。
Posted by tera at 2013年12月16日 18:26
入ってみて、むしろ通信のレベルの高さに驚いている。そして一人で勉強するということは大変なことです。
Posted by a at 2014年05月14日 00:34
全文読ませて頂きました。言いたいことは分かります、しかし
「1単位でも修得した時点で入試に合格した者と同じととらえるべき」これには無理があります。

まず通信制課程と一般入試組に明確な差があることは明らかです。かと言って通信制課程と推薦や指定校推薦、AO入試組に差がないとはなりませんよね。指定校推薦でしたら高校在学中にとてつもない努力が必要ですし、通常推薦でも高校の偏差値やそこでの成績、頭の回転の早さと言ったところはしっかりと見られております。つまり何が言いたいかと言いますと、通信制課程ではない卒業者は、入学する為の条件を超えた上できっちりと単位を取得して卒業しています。通信制課程は入学条件はないものの、きっちりと単位を取得して卒業しています。そこには条件があるかないかの明確な差があります。それをないがしろにすることは出来ません。
それにひとえに単位と言っても比較的簡単に取得出来る単位だって存在します。

私も通信制だという理由でバカにする様な人間は愚かであるとは思いますが、貴方の理論には少しながら無理が存在します。これについて何か反論がございましたらどうぞ。
Posted by 名無し at 2015年01月20日 18:12
すみませんが、名無しの方とはまともにお話しできませんので、きちんとお名前を名乗られてからお願いします。
Posted by まつもと at 2015年01月20日 18:31
ブログ拝読しました。

実生活であからさまな学歴カーストを強調してくる人はいませんが、ネットでは放送大学を初めとした通信制大学を叩く人が散見されます。
難しい入試を乗り越え、卒業することでエリート意識が形成されるのは容易に想像がつきますが、それが歪んでしまった人も一定数いるんだろうなぁと感じます。
いわゆる難関大学ではない大学に入ったことで劣等感を覚え、通信制大学を叩くことで憂さ晴らしする人もいることでしょう。
今や大学全入時代と言われるようになり、大学を出たことによる価値にバラつきが見られるようになりました。
学歴というのは見知らぬ人を測るツールとしてはある程度の力がありますが、それに偏る人は未熟と言わざるを得ませんね。
Posted by 中退一流 at 2015年11月14日 11:46
通信教育課程 卒です
30年前に経済事情により2年で中退した大学の通信教育課程に編入して20年前に卒業しました。
就職に使う訳でもないので、大卒にして良かったと思っています。自己満足です
「大学どこ?」「◯◯大学・・・学部」それ以上は話出来ませんが、嘘付く訳でもないしね。通信はバカ???比べる土壌にあがってないので気にしておりません。
大学卒業資格の必要な資格試験も受けられます。 無駄にはなりません。
高卒のまま、人生過ごすのか?考えましょう。
Posted by 下京区 at 2016年01月13日 17:07
どんな学歴も無意味ですよ。何故なら学問に終わりはなくまたそれを正確に測る尺度などないのですから。ある学校へ入学して卒業したところで、膨大な知識のうちのある一部をわかったつもりになっただけ。学ぶ人ほど自分の無知と無力に押しつぶされ惨めさを覚えるものです。
人生生涯学習ですよ。いくつになっても学ぶ努力をしている人は輝いていると思いますよ。
Posted by よしちゃん at 2016年03月23日 22:22
入試がないからということで問題となるのは、女性が交際相手や結婚相手の条件に学歴の項目を入れている場合です。
学歴に受験競争を勝ち抜いたという競争力の一つとして見なしている場合、入試がないということは受験競争に参戦していないということなので評価の対象にならないと考えられます。
もっともこのような評価の仕方であれば社会人ともあれば昇進や年収などによる競争力も問うてくるのは明白ですが。
基本的に女性は男性のあらゆる競争力を総合的に比較して選んでいるようではあります。
Posted by まんも at 2016年05月18日 00:18
こんにちは。
ブログ主は相当に学歴コンプレックスが強いのですね。
そもそも通信課程がバカにされたのではなく、ブログ主がバカにされただけでは?

学歴は関係ないと言いながら、大学の通信課程(どこの大学か分かりませんが)を卒業したことを誇っている(同時にコンプレックスも持ってる)のって、かなり自己矛盾していますよ。

学歴は関係ないと本気で思っているなら、学歴の話題なんて持ち出す必要がないでしょう。なにも主張することなんてないはずです。
Posted by 健太君 at 2017年05月15日 10:37
はじめまして、
今年4月よりとある学校の通信課程で勉強する機会を頂いた者です。

通信課程へのそのような偏見?があることを知り少し驚いております。

私が通信を選んだ理由は、
・仕事をしながら体系的な勉強をしたいこと、
・通信課程はしっかりと計画的に自学自習しないと卒業できないから、
の二つです。

学歴は人を理解するための一つの要素かも知れませんが、それにとらわれ過ぎてしまうのは、残念・・

人から無価値と言われても、学ぶことで視野が広がり、広く深く考えられるようになったり、他者への理解が出来るようになった、勉強してよかった、と思えば自分にとっては価値のある機会なのでは?と考えております。

学ぶことそのものは、人と競ったり比較して優劣つけることではないでしょうし・・

いろんな考え方があって興味深いです。
その人のタイトルではなく「人」を見て関わりたいと思いました(^^
Posted by 通信課程希望者 at 2018年03月19日 10:09
おまえは馬鹿か?
いや馬鹿だ。
Posted by 清沢 at 2018年08月27日 11:01
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