「正しい進学とは何か」
私が小学校5年生だった時、同級生の一部の人たちが地元の中学受験予備校に通っていることに気づき、初めて「中学校というところは、自ら望み、金と学力があれば地元の公立中学校へ進学しなくてもいい」ことを知りました。
そんな選択肢があるなんてこと、全く知りませんでしたから、がぜん興味を持ちました。
しかし、話を聞けば聞くほど頭にハテナマークが灯ります。
「ナントカ大学附属中学に進学すれば、ナントカ大学にエスカレーターで入学できる」
「ホニャララ高校へ進学すれば、中高一貫教育であの有名国立大学に入学できる」
「これからは競争社会だから、少しでも早く受験準備を整えていた方がいい」
こういう話を聞いて、私はすごく違和感を持ちました。
今、がんばってどこかの大学附属に入学したとする。そしてあまり勉強しなくとも、その大学に入学できたとする。そうしたら、大学生になってから困らないか?
今、がんばってどこかの有名進学校へ入学したとする。すると、自然と優秀になって、有名大学へ入れるようになるのか?
競争社会なのはわかるけど、早く準備を整えたから優秀になるって、ちょっとおかしくないか?
以前、「お受験は害悪」の記事でも述べましたが、私たちは他人に強いられる勉強は嫌なものだし、興味の無い分野について、点数が取れるというだけで努力をしようとは思いません。それでも進学校へ通っていれば、周囲ががんばって勉強するのを見て、落ちこぼれる恐怖感からそれなりの努力はするかもしれないけれど、面白いと思わないのに勉強に対する情熱なんてものは湧きませんよね。
ここで私の話。
私はいちおう法学部を卒業しています。大学院で、いちおう民事訴訟法を専攻しました。
わざわざ「いちおう」と述べているのは、好きで入学した学部だし、好きで選んだ専攻なのだけど、自信を持って研究をしたとか、大論文を書けるほどのスキルが得られたという訳ではないからです。
だけど、自分の大好きな分野を勉強したときは、試験に出るか出ないかに関わらず、とにかく全部勉強したし、穴があくほどテキストを読んだりもした。
大学院では別の教授から「松本君はあまり意味のないことばかりやっている」と批判されたことはあったのだけれど、指導教授からは「まぁ、せっかく入学したんだから、好きなことをやりたまえ」と言われ、民事訴訟法の論文をそっちのけで学校教育法や電気通信事業法を調べました。
その「無意味な研究」は、確かにほとんどが無意味に浪費されました。
2年で修了できる大学院を3年かけてしまったし、良い就職をした訳でもない。
だけど、私は自信を持って言えます。
「自分がやりたい勉強をした」……と。
だけど、無理強いされて、義務感だけで大学を出た人。とりあえず、修士を持っていなければ偉ぶれないからというだけで大学院へ進学した人。安定した職にありつくには大学教授がいいと思い、無理して博士を取った人もいるでしょう。
私の知っている人の中には、なんとか大学教授になったはいいけれど、その後、ろくに業績を出せないまま、いろんな人に軽蔑されている教員もいます。自分の能力が低いことを批判されたくないがために、必死になってライバルを叩くなんて人もいる。
私はふと思うのです。
本来、学問というのは、「いろんな分野のいろんな知識や考え方を収集して、その知識や考え方をもとに自分の考えを発表すること」ではないか。
この一連の作業を行うことができるのは、学校である必要はありません。自分の家、職場、図書館等々、どんな所属でも可能です。
ただし、大学という教育施設・研究施設が、高度に合理化されたシステムや制度を有しているため、研究の礎を築きたい人は大学を目指し、より研究を深めたい人は大学院を目指し、研究し続けることが可能な職に就きたい人が研究者(大学教員)を目指すのです。
すると、「ちょっと専門的な知識を持っていて、この知識や経歴を使って安定して食べていきたい人」、つまり「なんちゃって研究者」みたいな人は、本来的には大学へ来るべきではありません。そんな人が大学にいるだめに、研究をしたくしてしたくてたまらない優秀な人材がポストを得られないのです。
そこで私は問いたい。
大学で教員をされているみなさん、あなたは本当に研究がしたいのですか。
それとも、実は今までに投資した時間やお金を取り戻すべく、安定した職にありつきたいだけなのではないですか。
私は思うのです。
がんばって勉強すれば、大学院へ進学して、大学教授になれる。……なんて幻想を本当に信じている人、そして大学教授になった瞬間、研究することを忘れ、大学で権力を持つことに終始し、権威を振りかざして学生を従わせ、自分よりも優秀な研究者(ライバル)の粗を探すことに終始することになってしまうのではないでしょうか。
私の知っている限り、「がんばって勉強したぞ」と自覚・自慢している人に、優秀な研究者はいません。楽しい勉強を続けるために「がんばって金を貯めたぞ」という人はともかく、がんばって勉強したと自覚できてしまう勉強は、ほとんど身にならないはずです。
特に、「一生のうちで最も勉強したのは入試の時だった」と自覚している人は、もう学問が何たるかを語る資格が無いのではないか。
週刊誌に取材されるたびに、「最も良い進学とは何か?」と聞かれます。
期待される答えは、「文系なら国立大学の法学部へ行けば、公務員試験にも対応できるし、一般企業でもつぶしがきく」、「理系なら工学部を卒業して大学院へ行けば大手のメーカーなとに就職できる」……なんてものでしょう。
しかし、私はいつも「自分の適性に合った分野について、学びたいときに学べる学校が良い」と回答しています。
だってそうじゃないですか。
就職したいのなら、就職に特化した専門学校へ行けばいいのに、わざわざ大学で好きでも無い勉強をやる必要なんて無いでしょう?
世間体とか、一般論とかに踊らされて、「とりあえず四年制大学へ行けば安泰」とか、他人の目を気にして進学することほど、金の無駄遣いはないでしょう。
就職したいのに大学へ行って、就職できないことほど、バカらしいことはないでしょう?
就職できたとしても、最初から底辺社員要因となることがわかってて雇用されるって、きつくないですか?
「幸せな進学」……私の永遠のテーマとなりそうです。
これは受験のとき数学、物理、化学が得意で必死に勉強し、入学してみると勉強はほとんど暗記で何年も留年したという私の高校時代、大学時代のアンチテーゼでもあります。
最後は現在の職業に適性がないことも十分わかった上で、入学した限りはとにかく卒業して、資格だけは取って、そのあとは自分の好きな道へ戻ろうと必死でした。
大学受験当時も好きな分野に進学して、実家の家業を継いでいる人を羨ましく思ったものです。
結局、不本意な人生の結論が出つつある年齢になってしまいましたが、やはり適性のある分野へ進学するのが一番幸せです