私が大学院生だったとき、「大学院生たるもの、こうあるべき」という、一種の行動規範を一方的に定められるなど、学生からの申し入れが一番うざかった記憶があります。
私は入学・退学・入学(既修得単位認定)などを経ていたため、神奈川大学の入学時は大学を一浪して入学した年齢になっています。そして修士課程では一浪して入学したことになっているので、大学院入学時には年齢的には二浪となります。
当時、私のいた法学研究科博士前期課程では、大部屋を用意され、学生1人にひとつずつ、机が与えられていました。そこにいると先輩風をふかした連中がやってくる。修士課程の新入生から見て先輩というと、M2ということになります。しかし、二浪年齢の私と同じ学部時代を過ごしたはずの、元同級生の「先輩」がこう言うのです。
「俺は大学院の代表として言うが、松本、お前は大学院生として、襟を正してほしい。恥ずかしくない行動をとってくれ。品位に関わるから」
何をもって「大学院の代表」なのかは置いといて、私は彼の言っていることがわからなかった。よくよく聞いてみれば、私が当時連載していた雑誌記事のプロフィールに「神奈川大学大学院博士前期課程在学中」と書いてあるのが気に食わないらしい。まぁ、確かに改造車の雑誌に記事を書く大学院生というのも、そうそういないからね。
また、ニフティの懸賞論文(論文とはいいつつ作文・随筆みたいなやつ)で佳作を取った時は、褒められるかと思ったら、「修士論文の研究計画をきちんと出していないのに、そういう論文に応募すること自体が不適切」と、いろいろ言われた。
学費を稼ぎながら通っていたこともあって、「研究者として恥ずかしくない行動をとるように」と言われたこともある。
しかし、大学院って、そんなに気を遣って在学するところなのでしょうか。
当時、法学の修士を取った人には、税理士試験の3科目免除があったのだけど、研究そのものよりも免除規定を目的に入学してくる人もいました。私はそれでいいと思うし、モラトリアム期間を過ごすために入学したような人(研究者を目指していない人)なら、ギリギリのレベルの修士論文を書いてもいいと思う。研究が面倒になったならやめちゃえばいいし、研究者を目指したところで、作法だけ立派にしても実際になれる訳じゃないのだから何を勉強しようが、何を専門にしようが自由なのです。
一口に大学院生といっても、いろんな事情で大学や大学院に入学している人はいる訳で、何を目指そうが、何を学ぼうが、何をテーマに選ぼうが、他人がどうこう言える問題じゃありません。
指導教授が指導上の必要性から「こうあるべき、こうやりなさい」と指示するならともかく、大学院生の側が他の学生に「こうあるべき」などと他人を強制するなんておこがましい。
私にしてみれば、「まずは研究室内で喫煙する連中に同じ言葉を告げてやれ」と言いたかったのでした。
大学院に入学できただけでセレブの仲間入りを果たしたと思い込む人も多いと思います。
「修士を取れたから素晴らしい人物だ」、「大学教授だから誰よりも尊敬されるべき」などと、自分でそう思ってしまっている人を見ると鳥肌が立ちます。
フリーターであろうとニートであろうと、人の役に立っている人はすばらしいし、大学教授であろうと博士であろうと、その行動や存在が害悪でしかない人もいる。
ちょいとカッコいい肩書きを手に入れたからといって、天狗になって、他人を蔑ろにする人がいると思うと残念です。
もう少し突っ込んで言うと、世の中のあらゆる肩書きがそうではないかと思います。
東大へ進学、司法試験に合格、代議士に当選、医学部を卒業して医師になった、当選を重ねて国務大臣になった…など、すごい肩書きはたくさんあります。もちろん、その地位を得るために行った努力は評価されてしかるべきです。しかし、その地位が、そのまま一般社会で貴族と平民くらい階級のような意味を持つと思ったら大間違いです。
どんなに重要なポストであったとしても、結局は周りのサポートや様々な幸運が重なって初めてそのポストに付けている訳で、その地位の大半を占めるのは努力じゃなくて運です。
だから、大学院生になっただけ、修了しただけで天才的な頭を持っていると自負しているそこいらのみなさんに告げるなら、あなたは単に運が良かっただけなのです。「大学院へ行けるお金と暇があった」という幸運ね。
研究者とされる人が社会的に尊敬されるためには、地位や紀要への掲載とかではありません。あなた方の行った研究が、人類が環境に負荷を与えず、平和に暮らしていくために役立つような研究であったことが証明されて初めて尊敬されるのです。
「そんな研究なんて、そうそうできる訳ないじゃん」
と思ったあなたに一言。そう、その通り。そもそもそんな研究はそうそうできないのです。つまり、私の研究も含めて、多くの大学院生の行った研究なんて、社会的に尊敬されるべきものではないのです。
入学を許されて、単位を取って、学位論文で合格させてもらえただけ。
だから大学院生だからといって、修士だの博士だのの学位を得たからといって、それだけで偉ぶること自体が稚拙なのです。そんな稚拙な学生に限って、偉いとされる大学教授や有資格者が威張るところだけを真似るのです。私はそんな姿を見ると、私の方が恥ずかしくなります。
私は「大学院生とは学問とされる分野で論文の制作を義務づけられたオタク」と定義しています。
もちろん、修士課程でも論文そのものは要求されないところもあれば、専門職大学院などもあったりしますから、必ずしもその定義が当てはまるとは思いませんが、「一般的な修士課程」とくくるとそんな感じです。だって、ほとんど自己満足でしょう。ただ、その自己満足的な論文が集積されることによって、大きな研究の礎になるのですから、「自己満足」という評価で上等なのです。
だから大学院生は、他人の批判をする前に自分の身の程を知り、自らが学ぶことに一生懸命になればいいのです。修了した人は、これから学ぼうとする人の質問に対し、親切に回答してあげればいいのです。それができないのであれば、大学院生や修了を名乗らなきゃいいのです。
ただ自慢するだけ、ただ職場の待遇を向上させるだけ、ただ自分よりも劣った人に説教するためだけの学位なんて意味がないのです。
大学院へ行けただけで天狗になっているみなさん、それはダメですよ。人のために役立ってこそです。