2012年08月16日

いじめ発覚で担任教師の評価を下げるのは間違い

ワタミ会長の渡邉美樹氏が、過激な発言をしています。

「いじめが起きたクラスの担任は事前に芽を摘み取ることができなかったのだから減給すべき」と述べました。
週刊ポストセブンは、インタビュー記事を過激に編集することがあるため、この渡邉氏の言葉を額面通り捉えることができないが、この言葉は重い。
もともと「いじめ」などというものは、発覚しにくいもので、教師が感じ取れるくらいのいじめなどは、逆に言えば軽い。教師にも得手不得手はあり、いじめの発見のうまい教師もいれば、苦手な教師もいる。巧妙ないじめは「いじめられているふりをして相手をいじめる」なんてものもある。
学校裏サイトなどに悪口を書くなど、匿名掲示板に誹謗・中傷を行うなんて陰湿ないじめは、いじめそのものが発覚しても犯人特定が困難だから、いつまで経っても解決ができない。

だいたい公務員の昇進システム自体、個性ある教員を認めにくい(=上の言うことを聞けない人は左遷)上、ミスを認めること自体が悪という社会で、ことなかれ主義が基本です。ミスがあっても隠蔽できる限りは「いじめは確認できなかった」、「いじめと自殺に因果関係は無い」と言い続けなければならない、特別権力関係といってもいいくらいの縦社会だと思うのです。

人は生きて生活している以上、何らかのストレスを感じ、そのストレスを発散するためにいろんな行動を模索します。大人であればカラオケ、スポーツ、飲食、異性との付き合いなど、いろんな発散方法がありますが、子どもはお金がありません。日々の遊びや交遊関係などでストレスを発散することができる子どももいるでしょう。しかし、金も無く、親の無理解、友人もいないなんて子どもは、結局、自分よりも弱い立場の人間を見つけ、発覚しにくい環境の中で暴力を振るったり嫌がらせをしたりして、ストレスを発散するようになります。
大人の社会で起こっていることは、形を変えて子どもの社会にも反映されるのは誰もが知っているところでしょう。

すると、いじめを防ぐための手だては何が必要なのか。
それは渡邉氏も述べている「ディスクロージャー」です。ただし、そのディスクロージャーは、経営内容・経営実体などではなく、いじめの存否の公表です。これは別に外部に公表するってことじゃなくて、少なくとも教室内で、誰がどんな理由で誰をどういじめていて、その行為の何が問題で、それは今後どうすべきなのか。この行為に対して、教師がどう対応するのかを教室内で共有すべきことだと思うのです。

この本は、まさに教師にいじめを把握させて、子どもを守るために作られた傑作だと思っています。
   ↓
いじめ撃退マニュアル―だれも書かなかった「学校交渉法」 [単行本] / 小寺 やす子 (著); 野口 よしみ (イラスト); 情報センター出版局 (刊)

いじめが起こったら教師に罰を与えるなんていうのは、愚の骨頂だと思います。
「いじめを放置した」、「発覚・情報共有を遅らせた」という教師こそ問題なのですから、いじめの芽を摘み取れなかったら罰を受ける制度など、隠蔽が横行するだけのような気がします。

ワタミ会長 いじめ発覚なら担任教師の給料下げるべきと提案
 大津いじめ自殺事件で見えた教育システムの荒廃は、学校だけでなく、この国全体を蝕むものだ。今こそ硬直化した戦後60年の教育システムを変えなくてはならない、と指摘するのは神奈川県の教育委員を9年務め、郁文館夢学園の理事長でもあるワタミ会長の渡邉美樹氏である。
 * * *
 この問題を解決するには、教師には成果主義、学校には競争原理を持ち込むしかない。
 極端に言えば、例えばいじめが起きたクラスの担任教師は給与を下げる。いじめにいたるまでには芽の段階があるのだから、事前に芽を摘み取っておくべきで、それができなかったのは教師の能力が足りなかったか、やる気が足りなかったかだ。
 だから教師の評価をきっちり行なう。私が理事長を務める郁文館夢学園では教師の「360度評価」というものを実践している。生徒や親からの詳細なアンケートの結果、さらには校務分掌・教科・学年毎に上司、部下からの申告という具合に、総合的に評価する。評価がよければ、当然給与は増える。
 子供に教師を評価させるというと、「教師が子供に迎合するようになる」と必ず言われるが、そんなことはない。
 郁文館中学・高校では校長、教頭が毎日、教室を巡回して教師の授業をチェックするが、教師の上司である彼らの評価は、生徒たちのアンケート結果とほぼ一致する。子供は意外とよく見ているものなのだ。
 教師を評価し、給与に反映させるなら、相応のトレーニングが必要だ。
 今の仕組みでは大学を出たばかりの22歳の若者がいきなり「先生」と呼ばれる立場になり、教室の中では“王様”として振る舞うことができる。批判する人がいないから、成長しなくなる。それを改善するには、インターン期間を設けたり、研修を行なったりすることで、教師としての資質を見極めながら、同時にスキルアップもできる仕組みが必要だ。
 学校も同じである。教育方針、私立であれば経営実態のディスクロージャー(公表)を進め、公立と私立の間で自由競争を起こすためのバウチャー制度を導入するなどし、生徒や親が学校を本当に自由に選べるようになれば、良い学校は生徒が集まり、そうでないところは淘汰される。それが学校に対する評価である。
 なぜ学校を競わせたほうがいいかというと、裏には親の愛があるからだ。親は本当に子供のためを思うなら、「この子の能力を引き出してくれる学校はどこか」を考え、必死で探すはずだ。特に中学校を選ぶのは親なので、学校は親に選ばれるように競えばいい。
 親が良い学校かどうかを判断するために、学校は教師の評価を公表する。もちろん親の側にも偏差値重視の価値観を正してもらう必要はあるが、親も子供が本当にかわいいなら、優しくてゆるいだけの学校より、厳しく育ててくれる学校に入れるはずだ。
※SAPIO2012年8月22・29日号
posted by まつもとはじめ at 23:23| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「頭の良い人」の定義

よく、学業成績の上位の人のことを「頭が良い」という表現をします。

ちょっと考えていただければわかると思いますが、「学校における成績が良いことと」と「頭が良い」ということは、それなりに相関するケースはあっても、現実には違うというケースはたくさんあります。

いちおう、文筆業の世界にいる者として言うならば、中学・高校の国語の成績と、プロの作家やライターとしてやっていける人との相関関係はあまりありません。国語が常にトップクラスで、国語だけなら大学入試で満点を取れるくらいの能力を持っていたとしても、それが「精力的に情報を集めて独創的な感覚でものを書く能力」を担保するものとは思えません。むしろ、文章力はそこそこで、多少は人真似でもいいから、自分の興味を持った分野に精力的に取材していくくらいの人がプロとして役に立つと思っています。

私は仕事がら、いろんな職業の、いろんな立場の人とお会いすることがありますが、その業界で、第一線で活躍している人とお話しをすると、何というかオーラのようなものを感じ、「ああ、この人を超えることは絶対に無理だな」という印象を持つ人と、「え?この人がそんなすごい人なの?大したことなさそう」と感ずる人がいます。
この「すごい人オーラ」は、学歴や資格といった、評価のしやすいバロメーターではありません。中卒であろうと、高卒であろうと、すごい人のオーラはじんじん感ずるし、逆にすごい学歴を持っているはずの人でも、意外に大したことないんじゃないかという印象を受けたことがあります。

よく言われることではありますが、中等教育までの「頭の良い人」とは、模範解答のある設問に対し、その模範解答を短時間で引き出してこられる人のことを言います。つまり、「記憶力の優れた人」イコール「頭の良い人」です。
しかし、高等教育以降は、模範解答のある設問なんてある方が珍しいくらいだと思います。

例えば、「誰が日本の総理大臣になれば良いですか?」という設問に、模範解答なんてありませんよね。同様に「安全に原子力発電を運用する方法を説明しなさい」とか、「面白い映画とはどんな映画か、説明せよ」など、難しいものが多いはずです。

こうした困難な判断を「学業成績の良い人が適切に判断できる」とすること自体がかなり無茶なのに、我が国の官僚制度ではその学業成績の良い人が国家公務員試験に合格して国を動かしていくという不思議な状況にあります。
また、その国家公務員の中でも、偏差値の高い大学(東大・京大など)の出身者が尊ばれる傾向があって、独創的な判断よりも、無難な判断をできる人が昇進しやすいとされています。

しかし、民間企業では学歴はさほど重要ではなく、むしろ研ぎ澄まされた感覚で商品を開発できる人、少し強引でも有利な契約をとってこられる人、法律や機制の間をぬって面白いことをしてしまう人の方が尊ばれます。

そんな理由から、私はそもそも「学歴」というものを信用していません。信用していないからこそ、学歴が無いから悩んでいるという人には著書で「実はその学歴をいかに楽をして取得すべきものなのか」を説明しているし、「こんなくだらないことで悩むくらいなら、学位でも学歴でも取得してしまえば解決する」と「我々が思っているほど高学歴の人は優秀じゃない」ことも述べています。

東大でも早稲田でも慶應でも、一流とされる大学は、「卒業生(この場合は中退も含む)に優秀な人がいた」だけであって、現に学生をしている人、卒業生が優秀である証左にはなりません。ならない以上、学歴を信仰するような考え方は過ちだということになります。

このあたりの私の意見に少しも同意できない人は、きっと記憶力万能主義とでもいうのでしょうか。学歴というものを信奉し過ぎて、人物評価を見誤ってしまうのではないかと思います。
posted by まつもとはじめ at 02:02| 神奈川 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月14日

高等学校「早期卒業制」の検討は不要



ニュースで、スポーツや芸術で秀でた能力を持つ人向けに、2年間で高校を卒業させ、大学入学資格を付与させようという検討が始まっているそうです。

高等学校の卒業要件は、3年間の在学、74単位の修得、30時間の特別活動です。
この原則について、修業年限を2年にするとか、スポーツや芸術の活動を単位として認めるなど、機制を緩和することで、高校卒業を認定し、早期の大学入学や留学を促そうという動きがニュースになっています。

しかし、私はその検討については、全く必要性を感じておりません。

この動画ニュースを見ると、「才能のある高校生が海外で修行するためには、高校を中退しなければならず、才能を開花させることなく帰国してしまった時に、高卒の資格が無いことが不安」とあります。

このような高校生のために、私は2年間の通学で高卒資格を与える政策を導入する必要など、全くないと思っています。むしろ、何ら改革することなく、現行の制度をそのまま活用すれば良いだけです。

具体的には、現行の高等学校卒業程度認定試験を受験すれば良いのです。

「高校を2年間の通学だけで卒業資格を与える」ということは、少なくとも高校の卒業程度の学力は有しているはずで、この学力を持って8〜9科目の、高卒認定試験を受験すれば、1科目くらいの合格が達成できるはずです。
そして1科目の合格があれば、在学した高校の単位を利用して免除申請できるため、現在の制度の中で十分に、そしてかなり簡単に高卒資格が取得できるはずです。

もちろん、高校卒業と高卒認定試験合格はイコールではありませんから、「あくまでも高卒にこだわるぞ」という高校生は高卒をめざせば良いのですが、その名も「高等学校卒業程度認定試験」(=高卒と同じ程度)と銘打っている試験を運営している文科省が、イレギュラーな生徒たちのために、実質的な「2年制高校」を設置すべきではないと思うのです。

類まれな学力(例えば理科・数学系)を有する生徒を早く大学へ進学させる意味はわかりますが、スポーツや芸術分野で敢えて大学へ進学させる必要など、私はないような気がします。
あいにく、個別のケースは知らないので何ともいえませんが、ここで高校の制度をいじるべきではないと思います。

一方で、朝鮮学校高級部(朝鮮高校)の、法令上の高等学校としての認定がいつになっても始まらず、高校無償化(助成金)の問題がいつまでもくすぶっているというのも被差別感情を煽るだけなので、こちらの解決の方が急がれるような気がします。

これならできる!高認合格“超基本”テキスト―中卒・中退・不登校からの高卒資格取得 [単行本(ソフトカバー)] / 松本 肇 (著); ぼうご なつこ (イラスト); オクムラ書店 (刊)
posted by まつもとはじめ at 23:55| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 高等学校/高卒認定試験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月09日

ブログを新設しました

プロ作家松本肇のブログは日記専用にしていきたいと思います。

こちらのブログは、比較的まじめな記事を書いていこうと思っています。

posted by まつもとはじめ at 02:11| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする