2012年10月04日

大学の秋入学が導入されることについて

東京大学が学部の海外からの留学者向けの秋入学「PEAK」を導入します。そして留学生を対象に、今秋から学部生を受け入れることになったそうです。

読売の記事によると、合格者の3割が辞退したため、日本よりも欧米の大学の方が人気があると述べています。

「東大より欧米大」秋入学の海外学生、3割辞退
 東京大学で今月から始まる、初の学部レベルの海外学生向け秋入学コースで、合格者の3割が入学を辞退していたことがわかった。

 欧米の有力大に流れたという。国内では合格者の入学辞退が1%未満の東大も、秋入学では国際的な学生獲得競争にさらされることが浮き彫りとなった。

 東大が教養学部でスタートさせる秋入学コース「PEAK」では、英語による授業のみで卒業できる。出願要件は高校卒業までの12年のうち最低10年間、主に日本語以外で教育を受けていたこととされ、日本国籍でも受験可能。定員は30人前後としている。

 東大は昨年、約30か国に教職員を派遣して、新コースをPR。学費が事実上、免除となる奨学金も用意して、入念に準備してきた。今年1〜3月に実施した、書類と面接によるアドミッション・オフィス(AO)入試では出願者238人を集め、中国や韓国など14の国・地域から38人が合格。ただ、パキスタンやニュージーランドなどの11人が入学を辞退した。英オックスフォード大など欧米の有力大に進んだという。
(2012年10月3日16時54分 読売新聞)

この記事の論調としては出足からつまずいたという印象です。しかし、何事においても初年度から結果を出すのは難しいし、海外留学といえばオックスフォードやハーバードといった名のある大学を目指したくなるのは普通の反応です。
よほど東大に意中の教員がいるというならともかく、複数の大学に合格したら、学生にとって、最も価値がある、自慢しやすい大学を選ぶものです。だから今回は、初の取り組みなのだから、最初から結果を求めるべきではありません。


大学が秋入学になることの混乱

大学が全て秋入学になると、「春に高校を卒業して、秋まで何をするのか?」、「小学校から高校までが全部秋入学になったら大混乱だ」、「就職のタイミングとかはどうなるのか?」などなど、反発が起きるでしょうし、その結果、いろんなデメリットが生ずると思います。しかし、現実はさほど大きな問題とはなりません。
制度改正初年度か2年目くらいは混乱すると思いますが、3年も経てば安定すると思います。
こう言ってしまうとナンですが、消費税の導入・増税みたいなもので、最初は混乱するけれど、しだいにそれが普通になってしまうというあの感覚です。
ただし、それは初等教育から高等教育まで、全てを一度に変えた場合であって、春入学と秋入学が混在すると、遅かれ早かれ、半年間のタイムラグが問題になってしまいます。


カリキュラムの混乱を抑えるには教育機関一律の「秋入学」が必要

高校までは「春」、大学からは「秋」……というシステムを永続的に導入すると、無意味に混乱します。大学全てが「秋入学」とするのであれば、高校までの教育も全て秋入学・卒業としなければ、この半年間の無意味な時間が生じてしまいます。

私のいだく「理想的な教育」は、学びたいときにレベルに合った教育機会を得られることだと思っていますから、高校卒業と大学入学までに時間があけばあくほど、貴重な時間を無駄に過ごしてしまうことになります。だから、改革するのであれば、小学校と中学校、中学校と高校、高校と大学に時間をあけないことが前提です。つまり、初等教育から高等教育までの一貫した秋入学・卒業制度への改革です。

それでは今までのカリキュラムをはどうするのか。現行の2年生で学ぶべきことを1年生でやるのか……という疑問もあると思います。ただしそれは簡単で、今までのカリキュラムを、各学年のカリキュラムを前半と後半に分けて、半年間前倒しか先送りすればいいだけの話です。過渡期の児童・生徒にとっては「不公平だ」と言いたくなるかもしれませんが、よく考えてみれば、現行制度でも、4月生まれの子どもと3月生まれの子どもは、特に初等教育で知力・体力ともに不公平で、この格差は一生の格差につながる可能性もあるという研究結果もあります。もともと不公平なのですから、それが10月生まれと9月生まれの差になるだけだと私は見ています。
もう少し小学校において理想を追い求めるなら、「1学年」というものを前期・後期に分けるという考え方もありなのではないかと思います。実際に、慶應義塾幼稚舎(小学校)では、入試において早生まれの子どもに不利にならないような配慮がなされています。

したがって、導入時の混乱という問題だけで、秋入学・卒業制度が子どもの発達に大きな悪影響を及ぼすとは思えません。


もともと日本は秋入学・卒業だった

今年の1月、東大が秋入学の構想を発表した際に、我が国のような春入学・卒業は、国際的に見ればかなりイレギュラーであると知りました。それと同時に、かつて我が国も国際スタンダードに沿う形で秋入学・卒業だったのですが、明治から大正にかけて、改革されてしまったことを知りました。この改革の理由は、「秋入学だと夏の暑い時期に学年末試験や入試を行わねばならず合理的ではない」とか、「行政の会計年度と一致させた方が合理的」とか、そして「成年者の徴兵免除申請は4月に行うことが必要だったこと」などから春が一般的になったようです。
しかし、現代において、夏の暑い時期に学年末試験を行う学校は多いし、会計年度と教育機関を合わせる必要などないし、徴兵制が無い我が国において、別に春でなければならない合理的な理由はありません。


企業の従業員採用における問題は特になし

雇用の流動化の激しい昨今、企業への就職もまた、別に4月である必要はありません。
「新規学卒採用」と呼ばれる採用方式もさほど合理的ではありません。就職できずに留年してしまう人も多いことを鑑みれば、一度に採用する人数を操作して、4月採用と10月採用に分けてもいいと思います。
よく考えてみれば、4月にしか採用しない企業があったとして、年度の途中で退職してしまう人などの補充の必要性もあるのですから、年に3〜4回の採用機会があってもおかしくないですよね。


秋入学・卒業導入のメリットはひとえに「留学」

日本中の教育機関が、原則として全て秋入学・卒業に変わることについて、私は導入時の混乱を除外すれば、メリットの方が多いと思います。
この最大のメリットとは、海外留学の可能性拡大と、逆に留学生の受け入れ可能性の拡大です。
大学の運営面から考えれば、「不要な半年待ち」を生んでしまうよりも、高校を卒業・即留学の方が学力の低下や学習に対するモチベーションの低下も補えます。

留学がそんなにすごいのかという疑問を抱く人もあるかと思います。学びとは、英知との出会いです。
私はかつてカリフォルニアの公認会計士の家庭にホームステイして、地元の学校に通っていたことがあります。いわゆる中産階級の母子家庭で、何というか、アメリカの典型的な中流家庭を体験した経験は、私の人生にとって、とても有意義でした。アメリカ人のものの考え方などは、現地に行かないとわからないものです。
異文化と接すること、異文化に入ってみること、違う考え方の人と交流することは、脳を発達させる、極めて合理的な学習法であることは、留学を体験した人の多くが抱く経験だと思います。自らが留学すること、他国の留学生を受け入れることは、相互理解を深め、異なる言語を通して新しい知識を蓄積することができます。この可能性を広げるという意味では、秋入学・卒業は極めて合理的な改革です。
海外へ行きやすくするためにも、海外から来やすくするためにも、やはりスタンダードとされる秋入学・卒業制度を導入することは悪くないと思います。


秋入学・卒業制度はいわばコンピュータのOS

今までの春入学・卒業制度を一気に秋に変革する場合、それはものすごい反発もあると思います。
しかし、規格がバラバラの商品を開発してしまったために出遅れてしまう商品は、いずれ淘汰されることになります。また、標準的な規格に沿っているだけで、商品の持つ本来の良さがアピールできることもあります。
それはコンピュータでいえば、WindowsというOSに準拠しているだけで、世界中の多くのコンピュータとデータ交換ができるのです。もちろん、最近はWindowsとMacでも互換できますから、それぞれのユーザーがそれぞれのOSの良さを知ることができます。

大学教育は、国際的には学士・修士・博士という共通した国際標準の学位が得られるかどうかという点で、標準化されています。(もちろん例外はたくさんあります)
これが敢えて春入学でなければならないとする理由は無く、互換性の高い秋入学・卒業制度に変えるというのは、至極真っ当な判断だと思われます。


秋入学・卒業制度の準備は既に整っている

高校も単位制の学校が増えてきたし、大学に至ってはほとんどの大学がセメスター制なのですから、大きな混乱はありません。通信制大学の多くは春入学・秋入学併用制だったりもしているので、このような制度改革の準備は既に整っているといって過言ではありません。
ただ、我が国での秋入学・卒業制度導入は、コペルニクス的転回ともいえるため、拙速すぎる改革は大きな反発と混乱を生んでしまうような気もします。
せっかく秋入学・卒業のスタートが切られたのですから、私は段階的に、有識者の意見を聞いて、少なくとも数年間の議論を経た上で推し進めていくべきかと思っています。


参考
大学入学、なぜ春なの?(読売)
大学の秋入学に関する主な課題・論点(首相官邸)
東大の秋入学移行に反対する東大教員有志の会
posted by まつもとはじめ at 04:23| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月22日

いわゆる「お受験」は害悪


あまり優秀でない子どもに対し、熱心に教育したら、めきめき実力をつけていった。
その子は有数の私立の小・中学校に進学し、その後、あの有名な大学に合格した。
子どもは大学を優秀な成績で卒業し、あの有名な企業に就職し、幸せな人生を歩んだ。

   ↑↑↑
……これは、いわゆる「お受験」と呼ばれる、子どもの進学におけるサクセスストーリーです。
一般に「受験」と書かず、「お受験」と表記するのは、知識も判断能力も乏しい子ども自身の選択ではなく、親が主導して子どもの進む道を決定することからくるものと思われます。よって、高校や大学受験とは区別して、「お受験」とは小学校・中学校受験を指すものであると、私は勝手に定義します。

さて、こんな理想的なストーリーを得るために、お受験というものが必要なのでしょうか。
……というか、お受験の延長線上にある大学へ進学することで、本当に幸せな人生が送れるのでしょうか。
正直なところ、私は疑問です。

医者になるためには医学部へ行かなければなりません。だから我が子を医者にしようと思ったら、できることなら有名国立大、そうでないなら有名な私立の医学部へ進学させたいと思うのが親心。
国家公務員、特にキャリア官僚にとっては、我が子を国家公務員1種(総合職)に合格することはもちろん、合格してからの身のふりかたを考えれば、やはり東大か京大は出しておきたいと思うのも親心。

口では「人はみな平等」と言っておきながら、「やっぱり出た大学が立派じゃないと通用しないよなァ……」なんて考え、周辺の親が対策するのを見て、つい小学校の受験案内を見たり、中学受験専門の予備校を探したりしてしまいます。他人は低い位置での平等でも、自分や自分の家族は高い位置での不平等(勝ち組入り)を望むものですよね。その気持ち、わかります。

だけど、そのために、学業の資質の無い子どもに、過度な学習を強いて、その結果、どこかの有名私立小学校・中学校に合格したとして、その後の人生は本当に理想的なのでしょうか。何よりも、本人にとって幸せなのでしょうか。

私は「理想的な教育とは、個々人の向き不向き(得手不得手)をふまえ、レベルに応じた学習機会が与えられること」だと思っています。

スポーツを例に挙げてみたいと思います。
運動が苦手な子どもに、優れたスポーツトレーナーが付いたとします。
スポーツトレーナーがつくことで、合理的に基礎体力をつける方法を教わったり、フォームを調整することによって、子どもの身体能力は一定の能力まで向上させることができます。しかし、その後は本人の資質なり素質なりがものをいいます。どんなにスパルタ教育をしても、嫌いなことを好きにはなれません。まして、スポーツを職業にできる人などは、ごくわずかですから、子どものスポーツトレーニングは、あくまでも趣味程度にしておくべきで、プロを目指した訓練は、潜在的な能力を見出された子どものみにすべきであります。
このようなスポーツの事例を出すと、我々は経験則的に理解できるため、一般的には「素質・資質の無い人に無理して訓練しても一定以上の効果は望めない」という理解で正しいと思います。

しかし、これが「勉強」「学習」となると、不思議なもので、どんなに資質のない子どもでも、「やればできる」とばかりに、スパルタ的に教育を強いる教育方針があります。
とにかく試験問題で一定の得点をクリアすれば、または親子面接でマニュアル通りの対応ができれば、そして何とか総合的に一定の得点をあげて入学を許可されれば、後はその学校が有名大学まで導いてくれるはずだというものです。
この入学までの道のりをクリアするための準備が、いわゆる「お受験」と呼ばれるものだと思います。

さて、この「お受験」ですが、これが理想的な教育なのか、私にとっては大いに疑問です。

お受験をして進学した末の大学選び
私の小学生時代の同級生数人が、有名な私立中学に進学しました。その後、20歳の時にクラス会が行われ、私立中学進学組の彼らが実際に入学した大学を聞いて驚きました。
具体的な大学名を出すとナンですが、偏差値的には私の卒業した神奈川大学(法学部で55くらい)よりも下です。
あれだけ小学校時代から予備校に通い、受験対策を行ってきたのに、塾や予備校に行ったこともない私よりも偏差値が下の大学です。
「有名な大学へ行くために、早期に高度な教育を行って将来に備える」というつもりが、なんとか大学へ行ったものの、特別すごくなかった。
これって何のためのお受験だったのでしょうか。

無理して大学附属高へ入学しても疲弊
私の親戚にも一人、大学進学を夢見て、私立の中学、大学附属の高校に進学していながら、結局その大学には進学しなかった人がいます。彼は高校までのつらい勉強で疲弊してしまったため、18歳となり、自己決定権を主張できるようになってからは、親が何といおうと、大学へは進学しなかったのです。
「何はおいても大学へ行かせたい」と思うがあまり、必死に尻を叩いて大学附属に進学させたものの、結局は勉強嫌いになってしまう。したくもない勉強を強いられるつらさを知ってしまった人は、社会人が大学へ行きやすくなったとしても、二度と学問には関わりたくないと思ってしまうのだと思います。

有名私立小学校へ入学しても
私が大学時代にアルバイトしていた横浜の補習塾では、有名な私立の小学校に通う子ども(Y君)が通っていました。別にうちの塾の教育が良かったのではなく、もともとY君は成績優秀だったため、「優秀なY君が通っている」という評判から、その同じ小学校の児童数人が通塾していました。
Y君はものすごく優秀で頭の回転も早かったのですが、その同級生らは明らかに学業に対する適性は無いように見えました。同級生のうちのひとり、W君の保護者と面談すると、子どもの成績が伸び悩んでいることに対し、母親は教育ノイローゼとでも言わんばかりの状態に見えました。
面談の中で、「学校よりも先行して学習させたい」と、かなり無茶な親の意向を告げられたことがあります。基礎的なことがわかっていないため、「そりゃいくらなんでも無理」と回答したら、塾をやめてしまいました。
私の目には、教育費に多大な出費をして有名私立小学校に合格させたこと、そして親戚や近所の評判の手前、もう後には引けなくなったという危機感を抱いているようにも見えました。「W君はあの有名小学校に行ったのに、中学は公立だった」なんて言われては、沽券にかかわるというところでしょうか。だからといって、九九ができない子どもに3桁の掛け算は教えられませんから、先行学習は無理という、我が塾の判断は間違っていなかったと思います。

有名大学合格歴が人生の拠り所
一方で、なんとかお受験が成功し、私立中学・私立高校の進学をして、予備校にも通って、某有名私立大学に合格した知人がいます。彼はその合格の事実を、まるで勲章のようにして生涯の自慢としています。大学を卒業してまる20年が経とうとしているのに、彼を知る知人から「あいつはいまだに大学入試の武勇伝を語っている」と聞きました。
しかし、残念ながら、彼は仕事では成功していません。機会があって、彼の話を聞くたびに、彼や彼の家族がの投じた学習時間と費用は何だったのかと思ってしまいます。少なくとも現時点では、高学歴であることを自慢をするための巨額の投資だったということになります。

こうして見てみると、「お受験」というのは、実にリスキーな投資であることがわかります。
高額な教育費を捻出できる、裕福な家庭の子どもであったとしても、幼少期の遊びたい盛りの機会損失は計り知れません。これが一般の家庭で、少ない収入の中から、有名大学への進学を目指して教育費を捻出するというのは、負担も大きければその分期待も大きいものです。人並みの成績しか取れない子どもが無理に勉強させられたらどうなるでしょうか。

有名な私立小中高校に合格しても、その先、有名大学へ行けるとは限らない。
有名大学へ行けたとしても、その後、やり甲斐のある職・業務に就けるという保障も無い。


私は義務教育修了時の、全ての15歳が、中学3年の全ての科目において5段階評価で2以上の学力を身につけている必要はあると思います。しかし、資質もないのにそれ以上の勉強を強いられるというのは、良くないと考えます。

その一方で、努力らしい努力をせず、勉強が好きだから軽々と勉強できてしまうなんていう児童は、それこそ奨学金を給付してでも、飛び級をさせてでも有名大学へ続く道を歩ませるべきだと思っています。
そして無理な努力をしなければ大学へ行けないような人は、早めに適性を見定めて、苦痛の伴う勉強から解き放ってあげるべきではないかと思うのです。
食えるかどうかは別にして、芸術や芸能に適性を見出す人もいるでしょう。ナンバー1にはなれなくても、ナンバー2で手腕を発揮する人もいるでしょう。既存の学問ではカバーされていない分野に興味を持って、とんでもない能力を身につける人もいるでしょう。

苦痛とインセンティブ
さて、私は、大して優秀ではない生徒(学業に対する資質のない人)が、苦痛の伴う勉強をして、有名大学へ行くのは反対です。
人は苦痛を伴えば伴うほど、インセンティブを求めます。

勉強の好きな人は、本を読んで知識が頭に入ってきて、何かがわかることが快楽に感じます。つまり、知識の獲得そのものがインセンティブです。

しかし、勉強の嫌いな人は、その苦痛を伴う代償として、有名な大学へ入学できること、偏差値や点数を獲得できることがインセンティブであり、その結果、自分が入学した大学よりも下位とされる大学の学生をバカにしたり、17〜8歳の時に記録した模擬試験の結果を生涯の自慢としてしまいます。

学歴と地位や収入は直結しない
旧司法試験の時代。法律学が好きで好きで仕方のなかった私の知人は、勉強らしい勉強をしなくても、基本書を2〜3回読むだけで理解できるという才能を持っていました。国立大学へ進学する受験スキルは無く、彼が行った大学は中堅私立でしたが、ちょっとした受験テクニックを勉強しただけで、弱冠20歳で司法試験に最終合格してしまいました。もしこの知人の親が、「医者を目指せ」と言っていたらどうなっていたでしょうか。まぁ、医師としても成功したかもしれませんが、少なくとも彼は大学名にこだわらず、自分の好きなことを勉強したら軽々と司法試験に受かってしまったという訳です。彼は裁判官になりましたが、現在は退官して弁護士として活躍しています。

また別の知人は、何の取り柄もないと思われた男でしたが、交際していた女性の使っていた化粧品に興味を持って、小さな化粧品会社を立ち上げたところ、わずか数年のうちに年商1億円の会社に成長してしまいました。まだまだ伸びそうです。個人年収を聞いたら、具体的な金額は教えてくれませんでしたが、「大学の准教授の平均よりも多い」とのことです。高卒が大学准教授以上ですか。なるほど(^^;)。
彼は高卒ですが、私が放送大学で学んでいるのを見て、面白そうだからという理由で放送大学に入学しました。彼は5年かかってやっと40単位を修得した程度ですが、「放送大学の勉強は面白い」と言っています。

こうして見てみると、能力を有している人は、別に大学で学ばなくても優秀だし、あまり勉強しなくても目指す大学へは軽々と行けてしまう。むしろ、大学を目指すよりも、その先のことを考えているのだから、大学の名前なんかどうでもよくて、自分に都合の良い勉強だけして、どんどん先に行ってしまうものなのです。


こうして考えてみると、私の拙い人生経験による経験則ではありますが、「お受験」は人間の生育過程において、害悪しか生まないのではないかと思ってしまいます。
もちろん、お受験を経ることによって、人生の早い段階で優秀な人に接する機会はあるというメリットはあるかもしれません。東大へ行った人が「東大人脈」なんて自慢するくらいですから。
だけど、受験勉強にばかりウェイトを置いて、幼少期から点数と他人との比較(偏差値)に気を取られるあまり、興味を持つかもしれないことに出会えないというのは不幸なのではないかと思うのです。

学問に対する適性が見出せないのに、「やればできる」、「努力すれば優秀になれる」と思うあまり、無理に勉強させるというのは、いかがなものかと考えています。
すると、やはり「お受験」に始まる自分の適性に合わない進学行動は、害悪でしかないのではと、私は考えてしまいます。

何度も言いますが、この記事は、あくまで私の経験則に基づく仮説であります。
議論はのぞむところですが、具体的なデータを収集して出した結論ではありませんので、その旨、ご了承ください。
posted by まつもとはじめ at 02:18| 神奈川 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月27日

学歴は現代のカースト制度なのか

学歴のことを論じ始めると、必ずと言っていいほど、こんな意見が出てきます。

まず、大学へ行くか行かないかについて。

「今どき、大学くらい出とかなきゃ就職できないでしょ」
「大学全入時代に大学へ行けないのは貧乏人かバカ」

そして大学へ行く選択をした場合の大学選びについて。

「マーチくらい行かないと…」
「旧帝大を出て初めて偉そうにできる…」

さらに、通信制をめぐる大学選びについて。

「誰でも行ける通信に意味なし」
「通信を大学と思うな」

  ↑
みなさん、こんな話を聞いたことありませんか?

「大学へ行こうかな?」とおぼろげに思って誰かに相談すると、まだ社会経験も乏しいはずの友人たちから、ビックリするくらいいろんな意見を浴びせられます。

私も一応、塾講師時代があるので、受験生が偏差値だの大学名だの、こだわる理由はわからなくもないし、愛するエール出版社が発行する島野清志『危ない大学・消える大学』では、偏差値や社会的な評価を数値化した一覧表が載っています。どうせ進学するのなら、どこの大学を出ておくのが最も良いのかという評価を掲載し、エール出版社の鉄板商品となっています。

危ない大学・消える大学 2013年版 (YELL books) [単行本(ソフトカバー)] / 島野清志 (著); エール出版社 (刊)
危ない大学・消える大学 2013年版 (YELL books)


私も過去に読んで、すごいなぁ…と思いつつ、この考え方に、ずっと私は違和感を持っていました。

私は大学進学予備校のようなところに行ったことがないので、実は大学の選び方なんてものはよく知りません。
早稲田や慶應がカッコいいのは知っていても、川崎の当時の底辺高校出身の私としては、「どこでもいいから行ければいい」という理由で立正大学の二部に入学したのですから、カッコイイかどうかの問題ではないのです。

その後、神奈川大学法学部へ入学した私は、同級生がやたらに大学名の話題をしているのに驚きました。
偏差値なんてものはほとんど意識していなかった私ですが、神奈川大学は偏差値からすると、「日東駒専」(日大・東洋・駒沢・専修)と呼ばれる大学カテゴリと同等だったらしく、「もう少し頑張れば六大学を狙えた」、「代ゼミ模試で早稲田の合格見込み80%だった」、「慶應の補欠まで行ったが合格には至らなかった」といった、逃がした魚は大きかった話を、散々聞かされました。

一方、私は神奈川大学法学部の、当時「B方式入試」と呼ばれた、小論文と英語だけで受験できるところを受け、補欠で合格したのでした。小論文には点数をつけることはできても、一般的な偏差値に換算することはできないでしょうから、どう評価していいのかわかりません。
翌年、赤本を入手し、自分が受験したときの情報を読んでみたら、同学部の偏差値は55くらいで、競争率は12倍だったことから、まぁ、そこそこの成績だったということになるのですが、直前に受けた模擬試験では偏差値25なんてすごい数値を取ってしまったことからも、私は少なくとも大学入試に合格できるスキルは持っていなかったことになります。

しかし、そんな私も4年間在学して、無事に卒業した。
偏差値カースト制度に照らし合わせると、私は日東駒専と呼ばれる偏差値水準を死ぬまで維持することになり、「六大学」とか「早慶上智」とか「旧帝大」、「マーチ」(明治・青学・立教・中央・法政)なんて呼ばれる偏差値区分のようなカテゴリに当てはめると、私はちょうど真ん中当たりに位置するはずです。

私はこの学校群の区分について、よく知りませんし、知る必要もないと思っていますが、どうも「マーチ」と比較すると私の「日東駒専」よりも「マーチ」の方が上位に当たるようです。

しかし、こんな質問をしたとき、みなさんは正しく回答できますか。

「日東駒専の大学教授とマーチの大学教授、どちらが優秀でしょう?」
「日東駒専の学生とマーチの学生、どちらが面白いでしょう?」
「日東駒専の学生が、受験し直してマーチの学生になったら頭良くなりますか?」
「マーチの学生が、受験し直して日東駒専の学生になったら頭悪くなりますか?」

私は単なる偏差値比較で、大学の良し悪しを決めてしまい、その格差が一生有効というのは何かおかしいと思っています。

まして、たかが入試偏差値だけの比較です。
「大学で何を専攻したか」、「優の多さ」、「どんな研究をしたか」じゃなくて、入学時の偏差値ですよ。

入試偏差値の良し悪しが一生の身分・階級を決めるって、何かおかしくないですか。
例えば18歳の学力が全てを決めて、その後の4年間、大学で何を学んだのかを与されずに階級が決まってしまうんです。

ある試験が人の一生を決めるというのは、一定の合理性があります。
やはり試験を課して、一定の得点ができるというのは優秀さの証ですから。試験で高得点が取れる人は、きっと研究もできるし、仕事もできるのだから、試験による階級制度は合理性があるのです。

しかし、それなら、偏差値を判定する代ゼミが階級を決めるってことですか?
大学入試センターによる試験の採点が、身分を決めるってことですか?

すると、大学に入れさえすればいいので、その後の4年間の在学は不要ってことですよね。

マーチとか日東駒専という階級社会・身分社会のようなものは、上位に位置する人にとっては面白いのかもしれません。しかし、こんなくだらない階級制度に一喜一憂するなんて、おかしくないですか?

こんな無意味な身分制度・階級制度って、私が「著書10冊以上は売れっ子プロ作家」と冗談を言っているのと大差ありません。
むしろ他人を巻き込んで、無茶な階級制度をごり押ししているだけ、大学の階級の方が害悪です。

私が在学していたころ、私の地元では、神奈川大学と関東学院大学とどちらが優秀か……なんてくだらないことで競り合っていました。
しかし、これって、昔はやった、「BE-BOP-HIGHSCHOOL」の愛徳学園と立花商業と城東工業と戸塚水産のケンカの強さ比べみたいなものじゃないですかね?

何だか、考えていることはチンピラ高校生のケンカの強さ比べと大差ないというのが、妙に悲しいのです。

みなさん、入試の偏差値って、そんなに大切なんでしょうかね??

この記事はこちらからの転載です。
posted by まつもとはじめ at 04:25| 神奈川 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 学歴と社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月26日

自殺しようと思っているあなたへ

この記事は、夏休み終了目前の小学校、中学校、高校に通うみなさんにメッセージですが、自殺を検討している全ての人に、ちょっと一言申し上げようと思って書きました。

以前、私がブログで書いた言葉で自殺を思い止まったという報告を受けたことがあるので、今夏はひとネタ考えて書いておきます。


夏休みの宿題を苦に自殺なんかしないでください

学校で出される、夏休みの宿題って、恐怖ですよね。
できることなら、きちんとスケジュール通りにこなして、きちんと仕上げて、できれば頭も良くなって、期日通りに提出して、先生にほめてもらいたいと思いますよね。
しかし、長い夏休みをダラダラと過ごしてしまって、今頃になって怖くなり、頑張って宿題をやっている人も多いはずです。
宿題を提出しないと、先生に怒られるかもしれないし、成績も下がるかもしれません。
もちろん勉強を頑張ること、そして締め切りに間に合うように頑張ることは大切です。しかし、ワークブック・問題集を目の前にして、参考書を買ってきても、分からないものはやっぱりわからないのです。
実は私、自慢じゃありませんが、夏休みの宿題を全部きちんとやって出したことなんて、一度もありません。
実は私は勝手に都合よく、「夏休みは休むためにあるものだ」と解釈して、ろくに宿題をやらない生活を送っていました。
小学校の時はどうだったか忘れましたが、中学・高校の時は本当にサボっていました。
確かに、先生に怒られる恐怖はありました。宿題を提出しないことで先生に殴られたこともありました。

もし、大量の宿題を目の前にして、「もう死ぬしかない」なんて思っている人がいたら、思いなおしてください。
夏休みの宿題は、あなたの学力向上や維持のために課されるものですが、あなたを死に追いやるためのものではありません。

それでも、何も書いていないワークブックを提出するのが恐い人は、最初の1ページだけやって出しましょう。「全くやっていない」のと「少しはやった」のとは怒られるにしても、違いがあります。「やろうとしたけど、わからないのでやれなかった」という言い訳ができるじゃないですか。

また、「自由研究」などという、教師が怠けるためにあるような課題を課されたら、レポート用紙2枚を用意して、以下のように書いてしまいましょう。

1枚目
「自由研究 ─ 自由研究の意義について。」

2枚目
「自由研究は、児童や生徒が自由に研究を行うことで、学術の発展の礎を作るものである。ただし、自由研究は自由な研究であることが前提であり、研究する自由もあれば、研究しない自由もある。優れた研究をする自由もあれば、稚拙な研究をする自由もある。長い文章を書く自由もあれば、レポート用紙2枚で終わらせる自由もある。」

私は中学校の理科の自由研究で、「自由研究をやってこなかった者はビンタ」などと強制された時、こんなレポートを出したことがあります。先生は絶句していましたが、このレポートを出してビンタするのなら、それはルール違反です。(そもそも殴ること自体が良くないことなんですけど)
これは教師をバカにしたレポートかもしれませんが、そもそも「こうあるべきだ」なんて研究は存在しません。どうしても何か調べて来いというのなら、やり方や書き方を示すべきなのです。


またいじめられる恐怖を苦に自殺なんかしないでください

あなたがいわゆるいじめられっ子だったとしたら、長期の休み明けは、再び訪れる恐怖の学校生活の幕開けです。
親に心配かけたくないから学校へは通うけど、学校にはあなたをいじめることでストレスを発散しようとする同級生がいます。

しかし、その恐怖を苦にして自殺なんかしないでください。

ハッキリ言いましょう。今年の夏こそ、いじめを克服するチャンスです。
日本全国でいろんないじめが発覚しました。自殺者も多く報告されています。非常に残念なことではありますが、「マスコミで大きく報道される」というのは、いじめられっ子にとって、千載一遇のチャンスなのです。
そのせいで、今までは大目に見られていたちょっとした暴行も、警察に届ければマスコミが報道します。教師もいじめの起こりそうな環境を改善しようとします。

そしてその具体的な方法が不登校です。いじめが怖くて登校したくないのなら、学校へ行かなきゃいいのです。
不登校になれば、親や先生が「なぜ登校しないのか」と聞いてくれます。
聞かれたら、わざと深刻な顔をします。目に涙もためます。そして、時間をかけて親や先生に話すのです。
こうすると、「チクったことでまたいじめられるかもしれないので本当は言いたくなかったけれど、問い詰められたので、仕方なく先生に言った」ということにしましょう。

そして、いつ、誰に、どういう暴行をされたのか、どういう意地悪をされたのか、きちんと書いておきましょう。ノートに鉛筆書きでも構いません。それは後で証拠になるのです。

いじめた人は、たいてい、いじめたことを自覚しています。だから先生にチクられることを嫌がります。人に散々嫌がらせをしておきながら、その事実がばらされそうになると、必死になってその証拠を隠そうとします。同級生に「絶対に言うんじゃねーぞ」と脅すこともあれば、「俺たちはただふざけてただけだよな」と言い張るチキン野郎も多いのです。
「かわいそうだから」とか「同級生同士の問題に教師や警察が関わるのはどうも」なんて甘い顔を見せると、彼らはまた同じことをやらかします。前に甘い顔を見せたことを既成事実や前例として、「普通はチクらねーよな」、「これくらいのことで警察はやり過ぎだよな」なんて言い訳をするようになります。

そこで「夏休み明けからいじめを受けそうだ」という人にアドバイス。

自殺を考えているくらいなら、とにかく学校は休んじゃいましょう。学校はあなたの成長をサポートするために行く場所です。学校へ行くことであなたが死ぬのなら、行かない方がマシです。
もちろん、ただ「行かない」というのはけっこう大変ですが、あなたが死ぬことに比べたら、教師も親もまじめに対応してくれるはずなのです。


それでも自殺しかないと思う人へ

自殺願望にもいろんなものがあると思いますが、もしあなた自身が「本当は死にたくないんだけど、もう自分には死ぬしかない」と思っているとします。
「死にたくないけど死ぬしかない」ということは、生きていればそれなりに楽しいはずなのだが、自らを死に追いやる原因があるから死を考えてしまうということです。

当たり前のことですが、自殺の原因、つまり「その死に追いやる原因を取ってしまう」ことで、あなたの苦しみは軽減されます。
そしてこの苦しみのほとんどは、薬で解決できます。

私は別に医師ではありませんが、過去に大切な友人を2人、自殺で亡くした経験から述べると、2人とも、自殺の直前には深刻な鬱病を患っていたと思われます。鬱病というのは、ものすごく気が沈んだ状態で、自分には夢も希望も無く、生きていてももうダメなんじゃないかと思い込んでしまう感じになることです。
私の知る限り、自殺する人の多くは、この状態が長く続いたり、極度に深酷な状態になってしまう人が多いのです。

人に相談したくても、適当な相談相手がいないとか、いまいち分かってくれてないというケースもあるでしょう。
そんな時には少しだけ勇気を持って、医師にかかってみてください。
本当は診療科目に「精神科」があるところへ行くのが良いのですが、いきなり精神科というのは嫌でしょうから、まずは「心療内科」や「神経科」などにかかってみるのが良いと思います。
風邪をひいたら風邪薬をもらいに病院を受診するのは普通だし、歯が痛ければ歯医者へ行く。これくらい気軽に考えて、ちょっと気分が滅入っているという理由で心療内科などへ行って、試しに軽い安定剤などを処方してもらうというのはどうでしょう。



どうしても自殺したい人の自殺を止めさせる方法なんて私にはわかりません。
しかし、本当は自殺したくないのに、自殺を選んでしまう人がいるのなら、この記事を読んで、試しにちょっと実践してみてほしいのです。
この記事が、実質的な人命救助になるのであれば、私は本望であります。
posted by まつもとはじめ at 04:49| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 自殺の予防 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月24日

高卒の従業員が採用後に大卒になった時の待遇

大学評価・学位授与機構からは、今年の4月申請の人たちの学位記が届き始めているようです。

合格したみなさん、おめでとうございます。ぜひこの学士を使って、より高度な学びを実践したり、より良い職に就かれることをお祈りします。

残念ながら不合格だったみなさん、懲りずに何度でも挑戦してください。
今回のあなたのレポートを審査した先生が、たまたま今回だけ厳しめに採点したという可能性もあります。

さて、私の著書『短大・専門学校卒ナースがもっと簡単に看護大学卒になれる本』をめぐってしばしば議論になる「機構の学士は大卒か否か」の問題は、実は「就職の時に大卒として処遇されるのか」ということでも意見や判断が分かれます。

短大・専門学校卒ナースが簡単に看護大学卒になれる本 改訂3版 ─総予算25万円で看護学士に!大学評価・学位授与機構活用法 [単行本(ソフトカバー)] / 松本 肇 (著); 秋場 研 (監修); エール出版社 (刊)


機構の学士は就職活動で大卒扱いをされるのか

この質問に関しては、日本の「新卒一括採用」という、特異な就職制度もあって、ちょっとややこしくなります。

例えば、高校を卒業して3年制の専門学校に進学・修了してすぐに放送大学の選科履修生などで31単位を修得した人がいたとします。専門学校を修了後の4月に放送大学へ入学し、破竹の勢いで31単位を修得し、半年後の10月に学位授与機構に申請したとしても、学位授与機構は受理してくれません。
3年制の短大・専門学校(第2区分)を基礎資格とする場合は、卒業・修了の時から起算して「1年以上にわたって学修せよ」ということになっています。
ちなみにこの「1年以上の学修」というのは、1年間は履修登録しろという意味ではなく、「機構に申請するのは1年後から」という意味です。

すると、2010年4月に3年制の看護専門学校に入学した人は、2013年3月に修了。その時から1年後に申請資格を得るということは、最短で2014年4月に申請し、8月に学位記を入手できるということになります。
つまり、とんとん拍子に行ったとして、学士を得ることができるのは高校卒業から数えて4年半後ということになります。よって、4年制大学をストレートに卒業する人に比べて半年遅く学士を取得することになります。

ただし、短大専攻科や高専専攻科の卒業生は、例外的に専攻科の卒業見込みで申請できるため、4年制大学と同じタイミングで学士が得られますが、専攻科を利用するケースは激減しているため、ここでの説明は割愛します。

つまり、学位授与機構の学士は、4年制大学に比べて「半年遅い」というハンディキャップがあり、「新規学卒」の「卒業」に該当するかどうかと考えると、ややこしくなるため、一般企業では「ややこしい学歴の人がきた」と、あまり印象が良くないかもしれません。
また、リクルートなど運営する「リクナビ」など、ウェブの就職サイトでは、学位授与機構のような例外的なものは学校種類にも掲載しておらず、大学名一覧にも無ければ、短大・高専専攻科についても掲載がありません。

それでも、積み上げ単位を修得するために科目等履修生として在学した大学名を入力し、その後の面接などで事情を説明して理解してもらったというケースを取材したことはあります。

つまり、学位授与機構は、新規学卒採用で就職するためには、決して適当な学歴ではなく、説明や先方の理解が必要な、イレギュラーな「大卒」ということになります。
もっとも、イレギュラーだから大卒ではないと言い始めたら、外国の大学を卒業した人などは、全てイレギュラーだし、説明も必要だし、その国の高等教育制度まで説明しなければならない訳ですから、想定していた制度と違うからダメなどと、一概に述べることはできません。

さて、この記事の件名は「高卒の従業員が採用後に大卒になった時の待遇」であって、学位授与機構の学士の「大卒性」について述べるものではありません。
要するに、採用時の学歴が、採用後に変更された場合、どうなるかという話です。
もちろん、就職先と一口にいっても、大企業から中小零細企業、官庁や団体職員などもあるので、千差万別ではあります。高卒採用の男性が、放送大学を卒業したら翌春から大卒待遇にしてくれたというケースもあるし、MBAや修士を取っても全く考慮してもらえなかったというケースもあります。

高卒採用の人が大卒待遇になれるとき

経営者の立場からすれば、高卒の人間が大卒になったところで、すぐに生産性が上がるわけでも無いのに高給を約束するなんて嫌だし、だいたい人件費が安いという理由で高卒を10人採用したのに、全員が大卒になって高給を約束したら2〜3人リストラしなきゃならないという事態に陥ります。
従業員の立場からすれば、大卒になったのだから大卒待遇をしてもらいたいのは当然だけど、その結果、今度は自分がリストラさせられる立場になるとすれば、高卒のままでいいという判断もあるでしょう。

また、人事業務というのは、単純に大卒を揃えればいいというものではありません。大卒には大卒としてのスキルを求め、司令塔としての役割ができる社員2人にサポート的な役割が適正な社員8人を付けて、10人のチームを組むなんてことをします。つまり、入社の時点で、ある程度の役割分担が決まっているため、個々人が学歴をアップグレードしたという理由だけで、そうそう大卒相当の立場に昇格させるなんてことは無理なのです。

働きながら学び続ける人に、昇進についての話を聞くと、「金の問題じゃない、学びたいんだ」、「生涯学習が自己実現なのだ」という回答が返ってくることがあります。もちろんそれはそれで良いと思います。私自身、教育制度関係の本を書くのに、いくつも学位を取っているのは金の問題ではありませんし、投資として考えると、元本割れしていますから。

しかし、私は、高卒採用や短大・専門卒採用の人が、単純に昇進・昇給を狙って大卒を目指すことを無意味だとは思いません。いや、むしろ、高卒採用の人は、通信制でも夜学でもいいから、大卒やそれに類する学歴を取っておいた方が、はるかに有利だと私は思います。

なぜなら、雇用の流動性が、様々なチャンスをもたらすからです。
ある企業のある部署で、大卒2人、高卒8人で成り立っているところがあったとします。あなたは高卒採用のうちのひとりだとします。もしここで、その部署で突発的な問題が生じ、大卒2人が辞めてしまったとしたらどうなりますか。寿退社、産休、逮捕された、死んでしまったなど、計画に無かった事情で欠員が出てしまう場合です。
企業としては、今まで、大卒2人、高卒8人でやってきた部署なのだから、大卒の従業員を連れてきたいところですが、大卒だからといって全くの門外漢を連れてくる訳にもいきません。しかし、高卒の中から1人を昇格させるとしても、大卒者を責任者にしてきた慣例を無視して昇進させるほどの適任者がいない。そんな時、あなたが高卒採用で就職後に通信制大学を卒業していたらどうでしょう。「大卒者だから」という大義名分が与えられ、昇進のチャンスが訪れます。
しかし、そのためには、会社に対して、「自分は高卒採用だが、通信制の大学を卒業した」ことを事前に告げていなければなりません。ただし、あなたは謙虚にこう言っておくのです。

「私は大卒になりましたが、高卒の待遇で構いません。大卒が必要になった時に思い出していただければそれで十分です」

そう、大卒になったからといって、あなたは偉ぶりません。一応、会社に報告するだけです。ただただ、会社に対して「都合のいい人」であり続けるのです。

もちろん、あなたが大卒になった瞬間、ものすごい大天才に変身し、仕事でも何でもこなせる大人物になれるというのなら、転職してもいいし、会社に「大卒待遇にしろ、ダメなら退職する」と要求してもいいです。
しかし、仕事があるだけマシなこの就職難の時代において、正社員として雇われているということ自体、幸せなことなのです。
4年制大学を卒業しても就職が決まらない人が多い中、高卒で就職して、働きながら安い学費で大卒になれたのですから、「必要があったら役に立たせてください」という立場で良しとすべきなのです。

もちろん、少しばかり偏差値が高くても、周囲の高卒の人たちがバカに見えても、あくまで謙虚にふるまうのです。マーチだ旧帝大だなどという話は、高卒の人から見ればただの自慢にしか聞こえませんから、そんなくだらない話はしないように努めます。
そして、大学で学んだ教養を武器に、職場の良いまとめ役になるのです。

すると、ある日、突発的な事情で部署のリーダー(大卒)たちがいなくなった時、あなたに昇進のチャンスが訪れます。
ふだんから謙虚で、大卒・高卒の分け隔てなく、職場をまとめてきたあなたを蔭でコソコソ言う人はいないし、あなたを昇進させた上司も「仕事はできるし、大卒だから昇進させた」という説明ができるので、責任を問われることもありません。
こうして、あなたは安い人件費だから高卒で採用されたはずなのに、今では大卒待遇で仕事のできる人材として期待されるようになっています。

「大学全入時代」といわれる現代において、大学を出ていないというのは、就職活動において一見不利です。しかし、大学を出ているからといって、今の日本経済の中ではなかなか就職させてもらえないのですから、職種によっては低学歴の方が雇ってもらえる可能性が高いこともあります。これは特に専門学校が顕著ですね。
しかし、その低い学歴で就職した人が、いちおう大卒になっておくことで、ある日突然昇進の機会を得ることができるのです。もちろん、仕事ができるだけでなく、同僚の妬みを感じないよう、「いい人」でいることが大切なのです。

ちょっと頭がいいからといって偉ぶっている人。他人を小馬鹿にする人。
地位が高いからといっていつまでも他人の功績を認めない人。
蔭に隠れて人の悪口を言い、自分の価値を高めようとする人。

……こんな人って、学歴云々の前に、あまり付き合いたくないですよね。

そう、学士が大卒とイコールかどうかなんて、ハッキリ言ってどうでもいいのです。
社会人が後から取る大卒や学士は、「仕事のできる人が、昇進を検討された時に、大義名分となり得るかどうか」だけの話なのです。

以上の理由から、私は社会人の大学・大学院進学をお勧めします。
そして「いい人」となって、より良い人間関係を築ける人が増えてくれればいいなぁ……と切に願っております。
posted by まつもとはじめ at 04:42| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 学歴と就職 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする