2012年12月20日

大学レポート課題の「ウィキペディア禁止」は教員スキル低下の証左

近年になって、大学教員から、「最近の学生はインターネット情報をそのままレポートに転載・引用して提出する」と、学生の手抜きを問題視する発言や、むやみにネット上の情報をレポートに使ってしまう学生の行く末を案ずる話が聞かれます。
例えば、「日本の衆議院総選挙についてまとめよ(レポート用紙5枚以上)」なんて課題の場合、インターネット百科事典「ウィキペディア」のページの解説ページをコピー・ペーストして、こんなふうにまとめてしまうという感じです。

衆議院議員総選挙について
衆議院は全国民を代表する選挙された議員で組織される(日本国憲法第43条1項、参議院も同様)。日本国憲法下では衆議院解散による総選挙は衆議院解散の日から40日以内に総選挙を行う(日本国憲法第54条1項前段、公職選挙法31条3項)。一方、任期満了による総選挙は任期満了の日から前30日以内に行う(公職選挙法31条1項)。任期満了による総選挙の期間が国会開会中または国会閉会の日から23日以内にかかる場合においては、国会閉会の日から24日以後30日以内に総選挙を行う(公職選挙法31条2項)。また当規定により、任期満了直前に解散をすることによって理論上は投票日が任期満了後となることもある。
ちなみに、戦後任期満了で選挙を実施したのは三木内閣の1回だけである。
通常、「総選挙」とは衆議院議員の選挙にのみ用いられる語であり参議院議員の選挙は3年ごとに半数を改選するものであるから「通常選挙」と呼ばれる。公職選挙法31条も「総選挙」を任期満了あるいは衆議院解散による衆議院議員の選挙を指す語として用いている。ただし国会議員の選挙の公示について定めた日本国憲法第7条4号の「総選挙」については同条が「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、衆参問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を天皇の国事行為として定めた趣旨であると解されることから憲法7条4号の「総選挙」には参議院議員通常選挙が含まれると解するのが通説である[2]。公職選挙法により衆議院議員総選挙の期日は少なくとも12日前に公示しなければならないとされている(公職選挙法31条4項)。
選挙は投票により行う(公職選挙法35条)。衆議院議員の選挙においては小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票を投票する(公職選挙法36条)。衆議院議員総選挙の選挙事務の管理については特別の定めがある場合を除くほか、小選挙区選出議員の選挙については都道府県の選挙管理委員会が管理し比例代表選出議員の選挙については中央選挙管理会が管理する(公職選挙法5条)。選挙権・被選挙権・選挙方式の詳細については次節以下参照。
選挙された衆議院議員の任期は4年である(日本国憲法第45条本文、ただし解散あり)。衆議院議員の任期は総選挙の期日から起算するが(公職選挙法256条本文)、任期満了による総選挙が衆議院議員の任期満了の日前に行われたときは前任者の任期満了の日の翌日から起算する(公職選挙法256条但書)。
衆議院解散による衆議院議員総選挙が行われたときは、その選挙の日から30日以内に国会を召集しなければならない(日本国憲法第54条後段)。衆議院解散による総選挙後に召集された国会(日本国憲法第54条により召集れた国会)を特別会(特別国会)という(国会法1条3項)。一方、任期満了による衆議院議員総選挙が行われたときはその任期が始まる日から30日以内に臨時会(臨時国会)を召集しなければならない(国会法2条の3第1項本文)。ただしその期間内に常会(通常国会)が召集された場合、またはその期間が参議院議員通常選挙を行うべき期間にかかる場合はこの限りでない(国会法2条の3第1項但書)。
なお、衆議院議員総選挙の際には同時に最高裁判所裁判官国民審査が行われる(憲法79条2項)

以上、ウィキペディアの「衆議院議員総選挙」の概要部分を全文引用

学生は六法で日本国憲法の条文を調べるわけでもなく、広辞苑を手に取るわけでもなく、政治学の教科書を開くわけでもなく、ただインターネットの検索サイトで「衆議院議員総選挙」と検索窓に入れて、クリックするだけで、上記のような情報が無料で入手できてしまいます。ウィキペディアの情報は、それなりにクオリティが保たれている記述も多いため、特にこれを加工することもなく、引用元も書かず、そのままワードに貼り付けてしまえば、それらしい形になります。
そして自分の名前を書き、レポート提出に適当な体裁に整えて、提出します。
学生としては、可能である限り、なるべく苦労せず、コストをかけず、時間もかけずにレポートを作成し、大学の単位を得たいと思っているのですから、ついこのようなサイトの情報をコピー・ペーストしてしまうのでしょう。
こういうインターネットの情報をコピー・ペーストしてレポート化してしまう行為というのは、良いのでしょうか。それとも批判されるべき行為なのでしょうか。

■怠惰になったのは学生ではなく学校や教員の方だ
本来的、または一般的には、「大学生がネット情報のコピペをしてレポート提出するなんて、恥ずかしい行為だ」と、批判されるべき行為とされます。そして、私もそう思います。
しかし、この問題の本質を考えていくと、「学生が怠けるようになった」などと、短絡的に学校職員や教員が学生を批判できる立場ではないことがわかります。

私の知人の大学教員は、「最近の学生は自分で文章を考えずに、ネット情報をそのままコピーしてレポートを仕上げてくる。これで良いと思っているのか!!」と、学生の不勉強を嘆き、憂いています。
現場の教員は「けしからん」で済むかもしれませんが、これをもう少し俯瞰して、「大学の問題」とか、「大学業界全体の問題」としてとらえると、見方がだいぶ変わってきます。

ハッキリ言いましょう。
学生がコピペでこんなレポートを提出するのは、ズバリ、大学側が手抜きをしているのからなのです。
大学側が、きちんとポリシーを持って教育していれば、こんな事態には陥りません。
教員や職員が、その教育方針をきちんと考え、遂行していないから、こんなことが横行するのです。

■論点や模範的解答の無い設題が原因
例えば、上記のように「日本の衆議院総選挙についてまとめよ」という、いくつもの論点が含まれる問題について説明せよというのであれば、無駄に字数・枚数を増やすような設題ではなく、答えやすい形にすれば良いのです。

【例題】
(1)日本の衆議院総選挙について、1200字程度で説明せよ
(2)日本の衆議院総選挙について、あなたが抱く制度上の問題点を1つ挙げて論ぜよ
(3)日本の衆議院総選挙と参議院通常選挙の違いをA4用紙(1200字)5枚程度で説明せよ


このように、「何をどうまとめれば適切なレポートになるのか」を、出題の段階で明記しておけば、文章作成経験の無い学生でも、差し当たっての到達点や着地点がわかります。
その上で、(1)であれば字数という制限がある以上、単なるコピペを防ぐことができ、(2)も問題点を挙げろとあるのだから、1票の格差や比例重複立候補の復活当選が民主主義を反映するためのものなのか否かという問題を知ることができます。そして(3)なら、衆議院と参議院の選出の違いを比べることで、プロセスの違いによる国会議員の性格差(例えばタレント出身議員のスキルとか)を解説しなければなりません。つまり、きちんと推考された設題を与えることによって、何の考えも持たずにコピペしてしまう事態を防ぐことができるのです。
「日本の衆議院総選挙についてまとめよ」と、漠然とした設題を受けて、制度を説明すればいいのか、問題点を挙げればいいのか、自分の考えを述べるべきなのか、自らが立候補して当選する方法を書けばいいのか、何冊かの学術書を読まなければならないのかが明確でない中で、学問の素人がいきなり合格点のレポートを書けるわけがないのです。

このように指摘すると、ある大学教授はこう答えます。

「何が問題になっているかを自ら見つけられるよう、わざと論点をぼかして出題しているのだ」

確かに、無理難題気味のレポート課題を出題されると、まじめな学生は図書館で選挙制度の本を何冊か借りて読みます。各国の選挙制度の違いを調べたり、予備知識的な制度解説を頭に入れようとします。こうしたプロセスを踏むことによって、一部のまじめな学生は、このレポート課題をきっかけに優秀な大学生となり、卒業後は優秀な大学院生となり、研究者の道を進むかもしれません。
しかし、それは、学生全体の1%の天才・秀才を見出す方法としては使える方法かもしれませんが、7〜8割の学生のレポート作成能力を高めるために適した方法とは思えません。

合理的に単位を修得していきたいと思う学生なら、「日本の衆議院総選挙」について、とにかく「レポート用紙にまとめる」ことが課題なのですから、ウィキペディアをそのままコピペすれば、教員の設問をクリアしたことになるという思考になるのは簡単に想像できます。
結局、99%の学生は努力も苦労も回避して形だけのレポートを完成させ、単位を得ることになります。

■レポートをきちんと添削・返却しないことも原因
学生が手抜きをする理由の一つは、教師がきちんと添削・返却しないことも原因です。

お題に沿った内容で分量を満たしていれば合格とされるとわかっている場合、人はどうやって手を抜くか。それは簡単です。「適当な分量のレポートを期日までに提出すればいい」のです。ここに「添削される」こと、「返却されること」が加わらない限り、人は手を抜きます。

ちょっと考えればわかります。
例えば私の小学校時代、夏休みには、毎朝学校へ行って、校庭で行われるラジオ体操に参加しなければならないという課題がありました。
初日はきちんと参加して、手足をきちんと伸ばして体操を行います。しかし、特に誰も注意する人がいないから、2日目、3日目と、体操のクオリティは適当になっていきます。1週間もすると、出席カードにハンコを押してもらえばいいのだということに気がつき、遅刻して行くようになり、体操の終了間際に駆け込んでハンコを貰うこともしばしば。そして家族旅行で2週間不在の友達がいることを知って、行かなくてもいい言い訳を知ってからは、私も「長期の旅行に行く」と告げて、参加することをやめました。

よく考えてみれば、人は誰も見ていないところでは怠けるものだし、評価されないことには努力もしません。
独創的な考え方を書いても、けっこうな分量を調べても、ただ「提出した」だけで、「単位が得られる」のであれば、努力するモチベーションが湧かないものです。

さて、大学の授業でレポート提出を求める場合、その教員のみなさんは、きちんと添削しているのでしょうか。そして採点したレポートを返却しているのでしょうか。
少なくとも私の卒業した神奈川大学では、私が提出したレポートや小テストの答案を返却されたことはありません。
その後、大学院生として、裏方として何人かの教授の授業サポートをしたことがありますが、せいぜい提出の有無のみを記載するくらいで、教授が採点作業をしていたのは学期末試験くらいでした。

■レポートの書き方を教えるカリキュラムが無い
私は今までに、複数の大学や大学院に在籍しました。
しかし、「レポートの書き方を教える」という授業やカリキュラムが無いことに驚きました。厳密にいえば、大学院の論文指導などは、そういうカリキュラムに類することになりますが、大学院はあくまで「論文」の指導であって、それは普通にレポートを作成できる人が、もう一歩進んだ学術論文の書き方を鍛えてもらうための授業です。
しかし、本来的には、4年間の大学生活の最初のところ、つまり大学1年生の時に、大学で通用するレポートの基本的な書き方を学ばなければならないのです。ここで学ばなければ、これからの4年間のレポートは苦痛でしかないのです。
多くの大学教授は言います。

「大学生になったら、授業で必要なレポートの書き方は自分で勉強し、会得するものだ!」

このように考える人も多いと思います。基本的には私も同意します。しかしそれは時代が違うのです。
18歳人口の、例えば20%しか大学へ行けなかった時代の大学生と、60%が大学へ行く時代の大学生と、単純比較はできないのです。
もし「学力」という習熟度を測る絶対的な物差しがあり、数十年前の18歳と現代の18歳の学力が全く同じであったと仮定します。
すると、上から2割をすくい取った場合の大学生と、上から6割をすくい上げた場合の大学生を、それぞれ押し並べて平均的な大学生像を推察すると、明らかにレベルが低くなるのです。これは当然です。
かつては大学へ行けなかった学力でも大学へ行けてしまうというのは、平等に教育が与えられるという観点からは素晴らしいようで、学力の低い大学生を多く生み出してしまうのですから、逆に恐ろしいことになるのです。

あくまで一般論ですが、学力が上位の学生は物事を理解する能力が高いのですから、学力が上位になればなるほど自己学習するし、レポートの作成能力も向上します。
すると、今の大学生を一般化すると、自分でレポートの作成方法を勉強できて、その能力を自ら向上させられる人は少なくて、レポートの作成方法を勉強する方法も知らず、自ら向上させることもできない人が多いことがわかります。

こうなると、一口に「大学生」といっても、その大半は、レポートの書き方を知らない上に、大学1年生の時点で訓練されなければ、妥当な形式・分量・書き方のレポートを知らないまま進級してしまうのです。
それでも、かつては「卒業論文」と称する、2〜3万字程度の文章を提出しなければ、大学を卒業することができませんでした。そこで大学生は4年になったら訪れる卒業論文制作に向けて本を読み、レポートの書き方を学びました。そして教授も懸命に指導して成果物の作成サポートを行ったものですが、今では卒論を不要とする大学が多数を占めるようになってきたのです。

つまり、今の大学生は能力が低いとか、学力が低下しているという評価は必ずしも正しくなく、レポート作成の基本を学ばせるカリキュラムを用意せず、または卒論指導を不要として、文章作成能力の有無に関わらず卒業まで導いてしまう、大学側の制度上の問題であることに気づかなければなりません。

■そもそも入試で手抜きをしている大学
現在、日本の私立大学の一般入試は、その多くがマークシート方式(択一問題)で行われています。
簡単にいうと、マークシート方式による出題は、知識量が問われる試験です。
マークシート方式には、論理的な思考力を問う問題もありますが、それでも四肢や五肢択一という、複数の選択肢に必ず1つの正解が入っている試験形式です。
(まれに「ゼロ解答」と呼ばれる全て誤答のものや、同じ選択肢の中から複数個の解答を求められる択一問題がありますが、ここでは割愛します)

一方で、小論文方式などと呼ばれる、一定量の文章を記述しなければならない入試方式は、減ってきています。
小論文方式の入試は、一行問題とされるような出題もあれば、一定の文章を読解した上で設問に答えるものがありますが、いずれにしても1時間〜1時間半の時間制限で800〜1000字程度の文章を作成する出題がなされます。
お題はいろいろありますが、例えば社会問題系の小論文で一行問題なら、「三権分立と国民主権について説明せよ」、「社会保障について例を一つ挙げて論ぜよ」のような出題。読解を伴う出題としては、朝日新聞の天声人語1回分を読んで、「この文章を読んで、あなたの考える『幸福』について論じなさい」なんて出題が思いつきます。

マークシート方式は必ず解答が一つ存在する多肢択一の試験です。
それに対し、小論文方式は、自ら答案用紙のマス目を埋め、800〜1000字程度で、それなりのボキャブラリー・校正力・説得力などを要求されます。

比較するまでもなく、マークシート方式と小論文方式は勉強の仕方がまるで違います。同じ科目であったとしても、脳の違うところが使われているのではないかと思うくらい、インプット・アウトプットの作業工程が異なるのです。

こうして考えてみると、小論文方式で選抜された学生は、概して大学のレポート作成作業において「文章の書き方がわかっている」ということになります。そして私の経験則上、大学の一般入試で小論文を選択してきた人がレポート作成で悩んでいるというケースを見たことがありません。

すると、レポート作成の初歩で悩まない程度の大学生を本当に望むのであれば、大学の入試問題は、全て小論文方式にするか、小論文の配点が高い、マークシート・小論文併用入試にするべきという結論でなければおかしくなります。
しかし、これだけ大学生の学力低下が叫ばれている中で、小論文試験を入試で多用する大学なんて、あまり聞きません。私の大学院時代の師匠は「文章を書かせると、学生がどれだけ勉強しているのかがよくわかる」とも述べていました。
それなのに、大学がマークシート方式ばかりに頼るのは理由があります。

マークシート方式は、「コストが安く、手間もかからず、受験生間における不公平感を抱かない試験だから」です。

小論文試験は、人が目で読んで採点しなければなりません。公平に採点するためには、1回の試験で回収した答案用紙を複数(3人以上)の大学教員が取りかからなければならないのです。800〜1000字をざっと目を通すにしても、1枚2〜3分。1000人が受験する試験なら、50時間はかかる計算になります。
しかも、いくら公平に採点しようとしても、出自も性格も異なる人たちが読んで「良く書けているかどうか」を、100点満点で厳密に採点することなんてできません。不公平と言われても過言ではありません。

これに比べ、マークシート方式は、最初から正答が確定しているのですから、出題ミスさえ気を付ければ、機械が自動的に採点してくれるのですから、コストも手間も不公平感もありません。
さらに今では、大学入試センター試験の受験結果を持って申請するだけで合否が決定する試験もあるのですから、大学にしてみれば、コストを格段に抑えて受験生を確保するには格好の方式なのです。

■怠惰な入試を行っている大学が学生の劣化を嘆くな
これで大学生の学力が低下している理由、そして学生がレポートを作成するのにインターネット情報(ウィキペディア等)をコピペしてしまう理由がお分かりになったと思います。

入試のコスト削減と手間を惜しんでいる。
少子高齢化の中、学力の低い学生を入学させてしまう。
レポートの執筆法を解説する授業の不存在。
大学教員が授業でのレポート課題の添削・返却を怠っている。
卒業論文を課さなくなった。

もちろん、これは私が経験から抱いた仮説でしかありません。本当のところは、壮大な社会調査でもしなければわからないかもしれません。しかし、大きく違ってはいないでしょう。

具体的にどうすればレポートを作成できるのかがわからない中で、苦肉の策として学生が「時間と手間を惜しんでしまう」のは、皮肉なことに、今の大学教員・職員の行動から学んでいるのかもしれません。
posted by まつもとはじめ at 04:28| 神奈川 | Comment(5) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月01日

奨学金を借りてはいけない

大学への進学機会を与えてくれる「奨学金」という制度があります。
この制度は、経済的に恵まれない家庭の子どもであっても、彼らに大学へ進学する機会を与えることにより、次世代の優れた職業人や研究者を輩出するという、とても素晴らしい理念に基づく制度だと思います。

しかし、我が国の公的奨学金の大半は、単なる税金の無駄遣いではないかというのが、率直な私の意見です。
とはいえ、一口に奨学金といっても、いろいろなものがあるので、その全てを否定する訳ではありませんので、この記事で述べる問題の奨学金について、その定義を示しておきます。

■学費相当分を貸与する奨学金が問題

まず、優れた学力要件を満たし、成績や研究成果で優秀な学生に対して行われる給付型(返還義務無し)の奨学金は今後も継続して構わないし、当然存続すべきだと思っています。
一方で、私が問題視している奨学金は、大学や大学院へ進学する者に貸与される、貸与型(返還義務有り)の奨学金です。

なぜ問題なのでしょうか。それは、学力最下層、貧困層の人たちが多重債務を負うことになるからです。

国立大学の授業料は、年間54万円。初年度は入学金が必要なので、82万円くらいになります。4年間在学して、ざっくり250万円を納めることになります。

私立大学の授業料は、豊田工業大学の年間60万円、初年度95万円。4年間で275万円がおそらく最も安いのではないでしょうか。(理系・文系の昼間部を検索しても、ここが一番安かった)
一方、私立大学のいわゆる文系のうち、芸術関係を除いたものでは、玉川大学文学部の年間100万円、初年度160万円と、おそらく私立の文学部では最も高い学校になるのではないでしょうか。教育研究諸料や施設設備金などを足し合わせると、4年間で580万円にものぼります。

4年間の費用を比較すると、国立大学が250万円、私立の豊田工大が275万円、私立の玉川大が580万円と、実に2倍の開きがあります。

玉川大学はたまたま高額に見えますが、別に私立大学では4年間で500万円を超える費用を要求するところは珍しくありません。もちろん、これはあくまでも大学に支払う金額であって、学生が一人暮らしをするとか、日々の生活費や教科書代、ダブルスクール代などを捻出しようとすると、これでは済まないことは明白です。
しかし、世帯収入が例えば400万円くらいの家庭で、これだけの金額を捻出するとなると、奨学金や教育ローンに頼らざるを得ないことになります。

■大学の学費は4年で840万円に膨れ上がる

そこで、現実にどれくらいの奨学金を得られるのかを、貸与型で計算してみました。

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独立行政法人日本学生支援機構-JASSOのウェブサイトより。

ちょっと見にくくてすみません。
この計算でいくと、学費相当分として620万円を借りて、月額3万5千円を20年間に渡って返済していくというものになります。総返済額は840万円となります。

平均的な企業の大卒初任給は月20万円程度です。社会保険やなんだと控除される金額を除くと手取り15万円程度。一人暮らしをしている人なら、家賃・光熱費・食費で10万円は飛んで行きますから、残金5万円の中から3万5千円を捻出しなければなりません。

それでもこれは、「大卒待遇で就職できたら」の話であって、中小零細企業の場合、派遣やフリーターの場合など、すぐに支払いが滞ってしまいそうな返済額です。とにかく20年もの間、支払っていけるだけの、かなり堅い企業でなければ、計画通り返済していくというのはかなり難しいですよね。
もちろん、生活に困窮している場合などは、公的奨学金であれば猶予を受けられる可能性はありますが、それはあくまで猶予であって、免除ではありません。

国立大学であればもともと学費は安いし、それなりに優秀だからさほど苦労せずに就職ができます。だから学費全額を貸与方奨学金でまかなったとしても、収入が安定しているのですから、何とかなります。
しかし問題は、学費が異様に高く、どちらかといえば社会的な評価も低い、就職が困難な大学に、奨学金をあてにして4年間過ごしてしまったケース。

それこそ、元金600万円で、20年かけて800万円を分割して返済するなんてのは、新卒の学生が背負う金額としては、ものすごく重くありませんか。
600万という金額は、中古の安いワンルームマンションくらい買えてしまう話です。

時間のある人はこの動画をご覧ください。

Watch “奨学金取り立て”の現場 in ニュース  |  View More Free Videos Online at Veoh.com

18歳で大学に入学し、22歳で卒業した人がいたとします。
文系の、まあどちらかといえば就職が難しい私立大学に入学し、600万円の借金を背負ったとします。
しかし現実は厳しく、32歳(10年)の時点でやっと半分返済できたとなります。それでもまだ10年残っていて、利息を含めてまだ400万円も残っているのです。
国立大学を卒業した、優秀な人は、同じ額で払い続ければ、既に完済しているのにです。

こうして考えてみると、優秀な人は、安い学費で名門大学へ進学し、手堅い就職ができる。返済する奨学金も少ないし、収入も多いから返済が早く完了する。
一方で、優秀でない人は、高い学費で無名大学へ進学し、就職活動に苦労して、やっと就職できた先が中小零細。リストラに怯え、サービス残業を受け入れ、少ない給料の中から高額な奨学金を返済していかなければならないのです。

そんな現実を見てみると、よくもまぁ、こんな本を書いた人がいたもんだと、呪いたくもなります。
   ↓↓
子どもを大学に行かせるお金の話―年収200万でもあきらめない! [単行本(ソフトカバー)] / 久米 忠史 (著); 主婦の友社 (刊)
子どもを大学に行かせるお金の話―年収200万でもあきらめない!


■家計が苦しい人は大学へ行くな

私は、家計が苦しくて、さほど優秀ではない子どもは、なるべく早めに大学進学をあきらめ、とりあえず食うに困らない職業に就くため、格安の職業訓練校のようなところで資格や就業支援を受けるべきだと思っています。
それでも、「どうしても大学を出ておきたい」と思うなら、まずは2年制の専門学校へ行き、資格や職を確保した上で、通信制や夜間部へ3年次編入して大学に進学すべきだと思うのです。

文系の専門学校であれば、初年度こそ私立大学と同等の学費がかかりますが、必要な学費はわずか2年です。かかる学費は大学の半分である上、大学よりも2年早く就職できるのですから、仮に奨学金の返済が必要だったとしても、さほど苦労はありません。

もちろん、一度しか無い人生ですから、500万だろうが1千万だろうが、借金してでもやりたいことに賭けるということは悪くありません。こうして成り上がった人たちも多くいます。しかし、冷静に考えれば、ギャンブルは胴元が儲かるだけというのが自明です。この場合は大学が胴元といえるでしょう。

経済的に苦しい人が、大して学力も無いのに、大学へ行くのであれば、奨学金に頼らざるを得ない。
良い就職をして返済していくつもりが、4年制大学卒業者の就職内定率は公開されているもので63%。ただしこれは、全国平均で有名大学や医療系の学部を含めての平均です。無名で文系の大学で、資格も持っていない学生は不利に決まっているじゃないですか。
こんな丁半博打みたいなものに、4年間で5〜600万円の奨学金(借金)を負うというのは、かなり無茶な話です。

私は「頑張って勉強すれば、誰もが偏差値を上げられる。偏差値を上げさえすれば、良い大学に入れる。そして良い大学を卒業すれば良い就職ができる」というものは、社会が目指すべき方向としては間違っていないとは思うけれど、現実社会としては単なる幻想だと思っています。人には人それぞれの得手不得手があるのです。それを無視して「勉強をすれば明るい未来が開ける」と言う人がいるとすれば、そいつはとんだペテン師です。

その幻想を真に受けて、最下層の人たちが巨額の借金を背負い、その一方で大学の経営が潤うというのは、ちょっと違うような気がします。

私は「奨学金」とは、本来「優秀な人がただでもらうもの」と思っています。
返せる見込みのない借金は、奨学金・教育ローンなんて名前はついていても、それはただの借金。金額が大きいのですから、実質的には多重債務です。

母「うちはお金が無いから大学へ行かせることができない」
高校教師「そんなことはありません。奨学金を使えば大学行けます!」

こんなやり取りが、家計の多重債務化を生んでいくような気がします。
貧乏人がバカを見るのです。
みなさん、身の丈に応じた進学先の選択をしませんか。

(2013年9月17日追加)

posted by まつもとはじめ at 00:59| 神奈川 ☀| Comment(10) | TrackBack(0) | 奨学金 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月18日

マスコミは小沢一郎に謝罪したのか

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これは東京新聞11月17日の投書欄にあった、斉藤知英氏「小沢氏裁判報道反省を」の画像。

3年前、マスコミを通して陸山会事件のことを知り、「やっぱり小沢は汚い金を貰っていた、悪い政治家なんだな」と、極めて素直に感じた私だが、いろんな情報を通じて、この事件に対して疑念を抱くようになった。

(1)あれだけ政治資金はオープンにすべきだと唱えていた人が、なぜその政治資金規正法で検挙されるのか
(2)西松建設をはじめとする、多くの建設業者から、数千万円も貰えるほど、影響力のある政治家なのか
(3)なぜ検察は二度に渡って不起訴にしてしまったのか

いくらマスコミの報道をひっくり返して見ても、正直なところ、全く理解できない。

なぜなら、西松建設事件は、起訴事実になっていないのだからそもそも論外。
政治資金報告書に虚偽記載したといっても、単なる期ズレである。税金の申告と比べれば、明らかに修正申告で済む話だ。
商店でいう、「売り上げ除外」などではなくて、入金も支出も合っているけれど、それが数ヶ月ずれていたというだけの話。

なんでそれが東京地検特捜部の案件になってしまうのか、そして特捜が動きながら不起訴になってしまったのか。
不起訴なら不起訴でいいんだけれど、それをどうして検察審査会が「起訴相当」と判断できて、強制起訴に至るのかも理解できない。

検察審査会は、本来は警察や検察がいいかげんな捜査をして、その結果不起訴にした時に、「検察の職務怠慢」を戒めるために市民が起訴を指示するって仕組みである。
東京地検特捜部があれだけがんばった案件で、なぜ起訴相当が出てしまうのかもよくわからない。

そして前回、小沢一郎被告の一審判決で、「無罪」が言い渡された後のTBS「サンデーモーニング」で、ジャーナリストの岸井成格さんが「小沢さんはクロ!」と発言したのを私は忘れない。

なんでこの無罪判決に対し、岸井さんが「クロ!」と言えるのか、私はどうしてもその理由が知りたくて、石川知裕議員に直談判して陸山会事件秘書事件の一審判決の判決要旨をいただいた。
陸山会事件小沢事件については、ネットに転がっていたのを拾って読んだ。

ハッキリ言う。

判決要旨を最初から最後まで読んで、検察が主張したこと、弁護側が主張したことをきちんと理解した上での私の意見は、秘書事件も小沢事件も、どちらも当然に無罪にならなければおかしい事件。

「クロに近いグレーな無罪判決」と評価する人もいると思う。
しかし、あの判決要旨を読んで、あれが「グレー」などと言う人がいるなら、私はその人の日本語読解能力を疑ってしまう。
端的に言えば「バカ」か、「陸山会事件で小沢氏が有罪になってくれなければ困る人」であろう。

つまり、陸山会事件秘書事件(一審)については、判決理由部分は無罪を示しているのに、結論部分ではなぜか「有罪」としているのだ。
判決書きとはそんなものだといわれればそうかもしれないが、私からすれば、裁判官ともあろう人物が、判決理由で無罪の事件を、主文で「有罪」と書けてしまう、この裁判官は恐ろしいと感じた。

一方、陸山会事件小沢事件(一審)については、争点は3つあった。

(1)そもそも強制起訴に至った手続は妥当だったのか否か
(2)秘書らが行った行為は有罪に値するものなのか
(3)秘書らの行為が有罪だったとして、それが小沢本人が指示・了承(共謀)していたものなのか

結果として、(1)は妥当、(2)も有罪に値する、しかし(3)の共謀関係は無かったというのが小沢事件の一審無罪判決である。
しかし、そもそも(1)検察審査会が適正に機能したのかどうかが疑わしいし、(2)秘書らの行為は少なくとも禁固刑に当たるような行為ではないのだから、(1)〜(3)のいずれにおいても無罪と判断すべきであった。
ところが、いち裁判官が検察審査会の判断を無効と判断するのは影響が大きいし、秘書らの行為を有罪と判断している他の裁判官の判断を批判する訳にもいかない。
そこで、致し方なく、「共謀関係は無かった」と判断するしかなかったと読み取れる。

そして先日11月12日、小沢一郎被告は、東京高裁で公訴棄却を言渡され、あらためて「無罪」となった。

私はこの一連の事件について、少なくとも小沢一郎被告個人には、「グレー」などと表現できるところなどひとつもない、完全な無罪であると確信した。

同時に、石川知裕被告ら、元秘書3人に関しても、無罪という印象を抱いた。

もちろん、わずかとはいえ、「誤った報告書を作成したのだから」という理由で、落としどころとして罰金刑くらいは覚悟しなければならないかもしれない。しかし、禁固刑というのは執行猶予の有無に関わらず、やり過ぎ。

もしこの程度の書き間違いでも禁固刑というのであれば、世の中の経営者は税金の申告書を提出するに当たり、刑務所に入るリスクまで考えなければならないということになる。

「国会議員や議員秘書なんだから、ミスしたら当然に逮捕・起訴・禁固刑」なんてことがまかり通ったら、納税者も同じ目に遭うということだ。

「法の下の平等」とは、良くも悪くも、「同じミスを犯したら、同じ目に遭う」ということなのだ。


さて、虚偽報告書の問題をさんざん色眼鏡で分析してきたマスコミの人間。
特に、自ら判断して意見を述べることのできる人たちは、結果的に「虚偽報道」を行ったことになる。

まさか、「国会議員の虚偽は許せないけれど、自分の虚偽はスルーされるべきだ」などと思っていないことを祈る。

まずは小沢一郎氏の名誉を回復させるための検証報道が必要ではないか。
posted by まつもとはじめ at 03:23| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

幸せな進学とは何か

私が小学校の頃から納得できないというか、ずっと疑問に思っていたことがあります。

「正しい進学とは何か」

私が小学校5年生だった時、同級生の一部の人たちが地元の中学受験予備校に通っていることに気づき、初めて「中学校というところは、自ら望み、金と学力があれば地元の公立中学校へ進学しなくてもいい」ことを知りました。

そんな選択肢があるなんてこと、全く知りませんでしたから、がぜん興味を持ちました。

しかし、話を聞けば聞くほど頭にハテナマークが灯ります。

「ナントカ大学附属中学に進学すれば、ナントカ大学にエスカレーターで入学できる」
「ホニャララ高校へ進学すれば、中高一貫教育であの有名国立大学に入学できる」
「これからは競争社会だから、少しでも早く受験準備を整えていた方がいい」

こういう話を聞いて、私はすごく違和感を持ちました。

今、がんばってどこかの大学附属に入学したとする。そしてあまり勉強しなくとも、その大学に入学できたとする。そうしたら、大学生になってから困らないか?
今、がんばってどこかの有名進学校へ入学したとする。すると、自然と優秀になって、有名大学へ入れるようになるのか?
競争社会なのはわかるけど、早く準備を整えたから優秀になるって、ちょっとおかしくないか?

以前、「お受験は害悪」の記事でも述べましたが、私たちは他人に強いられる勉強は嫌なものだし、興味の無い分野について、点数が取れるというだけで努力をしようとは思いません。それでも進学校へ通っていれば、周囲ががんばって勉強するのを見て、落ちこぼれる恐怖感からそれなりの努力はするかもしれないけれど、面白いと思わないのに勉強に対する情熱なんてものは湧きませんよね。

ここで私の話。
私はいちおう法学部を卒業しています。大学院で、いちおう民事訴訟法を専攻しました。
わざわざ「いちおう」と述べているのは、好きで入学した学部だし、好きで選んだ専攻なのだけど、自信を持って研究をしたとか、大論文を書けるほどのスキルが得られたという訳ではないからです。
だけど、自分の大好きな分野を勉強したときは、試験に出るか出ないかに関わらず、とにかく全部勉強したし、穴があくほどテキストを読んだりもした。
大学院では別の教授から「松本君はあまり意味のないことばかりやっている」と批判されたことはあったのだけれど、指導教授からは「まぁ、せっかく入学したんだから、好きなことをやりたまえ」と言われ、民事訴訟法の論文をそっちのけで学校教育法や電気通信事業法を調べました。

その「無意味な研究」は、確かにほとんどが無意味に浪費されました。
2年で修了できる大学院を3年かけてしまったし、良い就職をした訳でもない。

だけど、私は自信を持って言えます。

「自分がやりたい勉強をした」……と。

だけど、無理強いされて、義務感だけで大学を出た人。とりあえず、修士を持っていなければ偉ぶれないからというだけで大学院へ進学した人。安定した職にありつくには大学教授がいいと思い、無理して博士を取った人もいるでしょう。
私の知っている人の中には、なんとか大学教授になったはいいけれど、その後、ろくに業績を出せないまま、いろんな人に軽蔑されている教員もいます。自分の能力が低いことを批判されたくないがために、必死になってライバルを叩くなんて人もいる。

私はふと思うのです。

本来、学問というのは、「いろんな分野のいろんな知識や考え方を収集して、その知識や考え方をもとに自分の考えを発表すること」ではないか。
この一連の作業を行うことができるのは、学校である必要はありません。自分の家、職場、図書館等々、どんな所属でも可能です。
ただし、大学という教育施設・研究施設が、高度に合理化されたシステムや制度を有しているため、研究の礎を築きたい人は大学を目指し、より研究を深めたい人は大学院を目指し、研究し続けることが可能な職に就きたい人が研究者(大学教員)を目指すのです。

すると、「ちょっと専門的な知識を持っていて、この知識や経歴を使って安定して食べていきたい人」、つまり「なんちゃって研究者」みたいな人は、本来的には大学へ来るべきではありません。そんな人が大学にいるだめに、研究をしたくしてしたくてたまらない優秀な人材がポストを得られないのです。

そこで私は問いたい。
大学で教員をされているみなさん、あなたは本当に研究がしたいのですか。
それとも、実は今までに投資した時間やお金を取り戻すべく、安定した職にありつきたいだけなのではないですか。


私は思うのです。
がんばって勉強すれば、大学院へ進学して、大学教授になれる。……なんて幻想を本当に信じている人、そして大学教授になった瞬間、研究することを忘れ、大学で権力を持つことに終始し、権威を振りかざして学生を従わせ、自分よりも優秀な研究者(ライバル)の粗を探すことに終始することになってしまうのではないでしょうか。

私の知っている限り、「がんばって勉強したぞ」と自覚・自慢している人に、優秀な研究者はいません。楽しい勉強を続けるために「がんばって金を貯めたぞ」という人はともかく、がんばって勉強したと自覚できてしまう勉強は、ほとんど身にならないはずです。
特に、「一生のうちで最も勉強したのは入試の時だった」と自覚している人は、もう学問が何たるかを語る資格が無いのではないか。

週刊誌に取材されるたびに、「最も良い進学とは何か?」と聞かれます。

期待される答えは、「文系なら国立大学の法学部へ行けば、公務員試験にも対応できるし、一般企業でもつぶしがきく」、「理系なら工学部を卒業して大学院へ行けば大手のメーカーなとに就職できる」……なんてものでしょう。

しかし、私はいつも「自分の適性に合った分野について、学びたいときに学べる学校が良い」と回答しています。

だってそうじゃないですか。
就職したいのなら、就職に特化した専門学校へ行けばいいのに、わざわざ大学で好きでも無い勉強をやる必要なんて無いでしょう?

世間体とか、一般論とかに踊らされて、「とりあえず四年制大学へ行けば安泰」とか、他人の目を気にして進学することほど、金の無駄遣いはないでしょう。

就職したいのに大学へ行って、就職できないことほど、バカらしいことはないでしょう?
就職できたとしても、最初から底辺社員要因となることがわかってて雇用されるって、きつくないですか?

「幸せな進学」……私の永遠のテーマとなりそうです。
posted by まつもとはじめ at 03:35| 神奈川 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月04日

大学の秋入学が導入されることについて

東京大学が学部の海外からの留学者向けの秋入学「PEAK」を導入します。そして留学生を対象に、今秋から学部生を受け入れることになったそうです。

読売の記事によると、合格者の3割が辞退したため、日本よりも欧米の大学の方が人気があると述べています。

「東大より欧米大」秋入学の海外学生、3割辞退
 東京大学で今月から始まる、初の学部レベルの海外学生向け秋入学コースで、合格者の3割が入学を辞退していたことがわかった。

 欧米の有力大に流れたという。国内では合格者の入学辞退が1%未満の東大も、秋入学では国際的な学生獲得競争にさらされることが浮き彫りとなった。

 東大が教養学部でスタートさせる秋入学コース「PEAK」では、英語による授業のみで卒業できる。出願要件は高校卒業までの12年のうち最低10年間、主に日本語以外で教育を受けていたこととされ、日本国籍でも受験可能。定員は30人前後としている。

 東大は昨年、約30か国に教職員を派遣して、新コースをPR。学費が事実上、免除となる奨学金も用意して、入念に準備してきた。今年1〜3月に実施した、書類と面接によるアドミッション・オフィス(AO)入試では出願者238人を集め、中国や韓国など14の国・地域から38人が合格。ただ、パキスタンやニュージーランドなどの11人が入学を辞退した。英オックスフォード大など欧米の有力大に進んだという。
(2012年10月3日16時54分 読売新聞)

この記事の論調としては出足からつまずいたという印象です。しかし、何事においても初年度から結果を出すのは難しいし、海外留学といえばオックスフォードやハーバードといった名のある大学を目指したくなるのは普通の反応です。
よほど東大に意中の教員がいるというならともかく、複数の大学に合格したら、学生にとって、最も価値がある、自慢しやすい大学を選ぶものです。だから今回は、初の取り組みなのだから、最初から結果を求めるべきではありません。


大学が秋入学になることの混乱

大学が全て秋入学になると、「春に高校を卒業して、秋まで何をするのか?」、「小学校から高校までが全部秋入学になったら大混乱だ」、「就職のタイミングとかはどうなるのか?」などなど、反発が起きるでしょうし、その結果、いろんなデメリットが生ずると思います。しかし、現実はさほど大きな問題とはなりません。
制度改正初年度か2年目くらいは混乱すると思いますが、3年も経てば安定すると思います。
こう言ってしまうとナンですが、消費税の導入・増税みたいなもので、最初は混乱するけれど、しだいにそれが普通になってしまうというあの感覚です。
ただし、それは初等教育から高等教育まで、全てを一度に変えた場合であって、春入学と秋入学が混在すると、遅かれ早かれ、半年間のタイムラグが問題になってしまいます。


カリキュラムの混乱を抑えるには教育機関一律の「秋入学」が必要

高校までは「春」、大学からは「秋」……というシステムを永続的に導入すると、無意味に混乱します。大学全てが「秋入学」とするのであれば、高校までの教育も全て秋入学・卒業としなければ、この半年間の無意味な時間が生じてしまいます。

私のいだく「理想的な教育」は、学びたいときにレベルに合った教育機会を得られることだと思っていますから、高校卒業と大学入学までに時間があけばあくほど、貴重な時間を無駄に過ごしてしまうことになります。だから、改革するのであれば、小学校と中学校、中学校と高校、高校と大学に時間をあけないことが前提です。つまり、初等教育から高等教育までの一貫した秋入学・卒業制度への改革です。

それでは今までのカリキュラムをはどうするのか。現行の2年生で学ぶべきことを1年生でやるのか……という疑問もあると思います。ただしそれは簡単で、今までのカリキュラムを、各学年のカリキュラムを前半と後半に分けて、半年間前倒しか先送りすればいいだけの話です。過渡期の児童・生徒にとっては「不公平だ」と言いたくなるかもしれませんが、よく考えてみれば、現行制度でも、4月生まれの子どもと3月生まれの子どもは、特に初等教育で知力・体力ともに不公平で、この格差は一生の格差につながる可能性もあるという研究結果もあります。もともと不公平なのですから、それが10月生まれと9月生まれの差になるだけだと私は見ています。
もう少し小学校において理想を追い求めるなら、「1学年」というものを前期・後期に分けるという考え方もありなのではないかと思います。実際に、慶應義塾幼稚舎(小学校)では、入試において早生まれの子どもに不利にならないような配慮がなされています。

したがって、導入時の混乱という問題だけで、秋入学・卒業制度が子どもの発達に大きな悪影響を及ぼすとは思えません。


もともと日本は秋入学・卒業だった

今年の1月、東大が秋入学の構想を発表した際に、我が国のような春入学・卒業は、国際的に見ればかなりイレギュラーであると知りました。それと同時に、かつて我が国も国際スタンダードに沿う形で秋入学・卒業だったのですが、明治から大正にかけて、改革されてしまったことを知りました。この改革の理由は、「秋入学だと夏の暑い時期に学年末試験や入試を行わねばならず合理的ではない」とか、「行政の会計年度と一致させた方が合理的」とか、そして「成年者の徴兵免除申請は4月に行うことが必要だったこと」などから春が一般的になったようです。
しかし、現代において、夏の暑い時期に学年末試験を行う学校は多いし、会計年度と教育機関を合わせる必要などないし、徴兵制が無い我が国において、別に春でなければならない合理的な理由はありません。


企業の従業員採用における問題は特になし

雇用の流動化の激しい昨今、企業への就職もまた、別に4月である必要はありません。
「新規学卒採用」と呼ばれる採用方式もさほど合理的ではありません。就職できずに留年してしまう人も多いことを鑑みれば、一度に採用する人数を操作して、4月採用と10月採用に分けてもいいと思います。
よく考えてみれば、4月にしか採用しない企業があったとして、年度の途中で退職してしまう人などの補充の必要性もあるのですから、年に3〜4回の採用機会があってもおかしくないですよね。


秋入学・卒業導入のメリットはひとえに「留学」

日本中の教育機関が、原則として全て秋入学・卒業に変わることについて、私は導入時の混乱を除外すれば、メリットの方が多いと思います。
この最大のメリットとは、海外留学の可能性拡大と、逆に留学生の受け入れ可能性の拡大です。
大学の運営面から考えれば、「不要な半年待ち」を生んでしまうよりも、高校を卒業・即留学の方が学力の低下や学習に対するモチベーションの低下も補えます。

留学がそんなにすごいのかという疑問を抱く人もあるかと思います。学びとは、英知との出会いです。
私はかつてカリフォルニアの公認会計士の家庭にホームステイして、地元の学校に通っていたことがあります。いわゆる中産階級の母子家庭で、何というか、アメリカの典型的な中流家庭を体験した経験は、私の人生にとって、とても有意義でした。アメリカ人のものの考え方などは、現地に行かないとわからないものです。
異文化と接すること、異文化に入ってみること、違う考え方の人と交流することは、脳を発達させる、極めて合理的な学習法であることは、留学を体験した人の多くが抱く経験だと思います。自らが留学すること、他国の留学生を受け入れることは、相互理解を深め、異なる言語を通して新しい知識を蓄積することができます。この可能性を広げるという意味では、秋入学・卒業は極めて合理的な改革です。
海外へ行きやすくするためにも、海外から来やすくするためにも、やはりスタンダードとされる秋入学・卒業制度を導入することは悪くないと思います。


秋入学・卒業制度はいわばコンピュータのOS

今までの春入学・卒業制度を一気に秋に変革する場合、それはものすごい反発もあると思います。
しかし、規格がバラバラの商品を開発してしまったために出遅れてしまう商品は、いずれ淘汰されることになります。また、標準的な規格に沿っているだけで、商品の持つ本来の良さがアピールできることもあります。
それはコンピュータでいえば、WindowsというOSに準拠しているだけで、世界中の多くのコンピュータとデータ交換ができるのです。もちろん、最近はWindowsとMacでも互換できますから、それぞれのユーザーがそれぞれのOSの良さを知ることができます。

大学教育は、国際的には学士・修士・博士という共通した国際標準の学位が得られるかどうかという点で、標準化されています。(もちろん例外はたくさんあります)
これが敢えて春入学でなければならないとする理由は無く、互換性の高い秋入学・卒業制度に変えるというのは、至極真っ当な判断だと思われます。


秋入学・卒業制度の準備は既に整っている

高校も単位制の学校が増えてきたし、大学に至ってはほとんどの大学がセメスター制なのですから、大きな混乱はありません。通信制大学の多くは春入学・秋入学併用制だったりもしているので、このような制度改革の準備は既に整っているといって過言ではありません。
ただ、我が国での秋入学・卒業制度導入は、コペルニクス的転回ともいえるため、拙速すぎる改革は大きな反発と混乱を生んでしまうような気もします。
せっかく秋入学・卒業のスタートが切られたのですから、私は段階的に、有識者の意見を聞いて、少なくとも数年間の議論を経た上で推し進めていくべきかと思っています。


参考
大学入学、なぜ春なの?(読売)
大学の秋入学に関する主な課題・論点(首相官邸)
東大の秋入学移行に反対する東大教員有志の会
posted by まつもとはじめ at 04:23| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする