2014年05月28日

高卒認定試験合格は高卒資格ではないのか

この半年の間に、ちょこちょこ、マスコミに出演する機会があって、おかげさまで忙しくやっております。

実は3月に共同通信社から取材を受けまして、この3月〜5月の間に、全国の地方紙、おそらく数十紙に私の記事が掲載されました。

私の地元で入手できたのは神奈川新聞で、こんな感じで掲載されていました。
■神奈川新聞の記事

この記事の中で、「高卒資格を得る選択肢は」という見出しがあり、その方法のひとつとして高等学校卒業程度認定試験、つまりかつて大検と呼ばれていた、受験だけで高卒資格を取得できる方法を紹介しました。

ところが、この記事に物言いが付いてしまいました。
「高卒認定試験に合格しても、高校を卒業したことにはならないぞ」というもの。

この手の議論は、実はよくあります。

「高卒認定試験に合格しても、高卒にならないので価値はない」という主張です。

学位授与機構の学士については、ここで散々申し上げました。
■なぜ学位授与機構の「看護学士」は大学の「看護学部卒」と同じなのか

だけど、高卒認定試験についても同様の議論をしつこく述べてくる人がいて、共同通信社の担当記者は誤まった情報を配信したのではないかと疑われています。

しかし、たいていこの議論をふっかけてくる方は、教育行政も教育法も調べずに、自分の思い込みや、狭いコミュニティ内での常識を振りかざす場合が多いため、いちいち説明するのに苦労します。

柔道でいえば、「技あり」を2回取る「一本」と、一発で決める「一本」は違うみたいな話でしょうか。
野球でいえば、ランニングホームランは本当のホームランではないという話でしょうか。

そんな方々にいちいち説明するのが面倒なので、こんな動画を制作しました。

■高卒資格と高認試験2014.5.20

直接視聴する


そもそも、「高卒資格」なんてものは存在せず、私たちが「高卒資格」と呼んでいるものは、法律的には「大学入学資格」というものであって、この大学入学資格のことを、分かりやすいから便宜上「高卒資格」と呼んでいるだけなのですよね。

まぁ、そんな常識を覆すようなことをするのがジャーナリストなり、専門家の仕事だと思っていますので、少々の批判は甘んじて受けます。参考にしていただければ幸甚です。
posted by まつもとはじめ at 04:02| 神奈川 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 高等学校/高卒認定試験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月14日

「高校中退者多様な進路」山陽新聞2014年3月14日朝刊に掲載

sanyo-20140314.jpg

共同通信社から取材申し入れがあり、高卒認定について説明させていただきました。

同社は全国の地方紙に記事を配信しているようでして、山陽新聞以外の全国地方紙の文化欄に掲載されるそうです。

みなさんの地元の新聞に配信されたら、どこの新聞のいつの号か教えていただければ幸甚です。

上記の画像はFacebook友達の山下さんからのものです。

これならできる!高認合格“超基本”テキスト―中卒・中退・不登校からの高卒資格取得 [単行本(ソフトカバー)] / 松本 肇 (著); ぼうご なつこ (イラスト); オクムラ書店 (刊)
これならできる!高認合格“超基本”テキスト―中卒・中退・不登校からの高卒資格取得
posted by まつもとはじめ at 23:59| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 高等学校/高卒認定試験 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月13日

大学院生とは単なるオタクと心得るべき

私が大学院生だったとき、「大学院生たるもの、こうあるべき」という、一種の行動規範を一方的に定められるなど、学生からの申し入れが一番うざかった記憶があります。

私は入学・退学・入学(既修得単位認定)などを経ていたため、神奈川大学の入学時は大学を一浪して入学した年齢になっています。そして修士課程では一浪して入学したことになっているので、大学院入学時には年齢的には二浪となります。

当時、私のいた法学研究科博士前期課程では、大部屋を用意され、学生1人にひとつずつ、机が与えられていました。そこにいると先輩風をふかした連中がやってくる。修士課程の新入生から見て先輩というと、M2ということになります。しかし、二浪年齢の私と同じ学部時代を過ごしたはずの、元同級生の「先輩」がこう言うのです。

「俺は大学院の代表として言うが、松本、お前は大学院生として、襟を正してほしい。恥ずかしくない行動をとってくれ。品位に関わるから」

何をもって「大学院の代表」なのかは置いといて、私は彼の言っていることがわからなかった。よくよく聞いてみれば、私が当時連載していた雑誌記事のプロフィールに「神奈川大学大学院博士前期課程在学中」と書いてあるのが気に食わないらしい。まぁ、確かに改造車の雑誌に記事を書く大学院生というのも、そうそういないからね。

また、ニフティの懸賞論文(論文とはいいつつ作文・随筆みたいなやつ)で佳作を取った時は、褒められるかと思ったら、「修士論文の研究計画をきちんと出していないのに、そういう論文に応募すること自体が不適切」と、いろいろ言われた。

学費を稼ぎながら通っていたこともあって、「研究者として恥ずかしくない行動をとるように」と言われたこともある。

しかし、大学院って、そんなに気を遣って在学するところなのでしょうか。

当時、法学の修士を取った人には、税理士試験の3科目免除があったのだけど、研究そのものよりも免除規定を目的に入学してくる人もいました。私はそれでいいと思うし、モラトリアム期間を過ごすために入学したような人(研究者を目指していない人)なら、ギリギリのレベルの修士論文を書いてもいいと思う。研究が面倒になったならやめちゃえばいいし、研究者を目指したところで、作法だけ立派にしても実際になれる訳じゃないのだから何を勉強しようが、何を専門にしようが自由なのです。
一口に大学院生といっても、いろんな事情で大学や大学院に入学している人はいる訳で、何を目指そうが、何を学ぼうが、何をテーマに選ぼうが、他人がどうこう言える問題じゃありません。
指導教授が指導上の必要性から「こうあるべき、こうやりなさい」と指示するならともかく、大学院生の側が他の学生に「こうあるべき」などと他人を強制するなんておこがましい。
私にしてみれば、「まずは研究室内で喫煙する連中に同じ言葉を告げてやれ」と言いたかったのでした。

大学院に入学できただけでセレブの仲間入りを果たしたと思い込む人も多いと思います。
「修士を取れたから素晴らしい人物だ」、「大学教授だから誰よりも尊敬されるべき」などと、自分でそう思ってしまっている人を見ると鳥肌が立ちます。

フリーターであろうとニートであろうと、人の役に立っている人はすばらしいし、大学教授であろうと博士であろうと、その行動や存在が害悪でしかない人もいる。
ちょいとカッコいい肩書きを手に入れたからといって、天狗になって、他人を蔑ろにする人がいると思うと残念です。

もう少し突っ込んで言うと、世の中のあらゆる肩書きがそうではないかと思います。

東大へ進学、司法試験に合格、代議士に当選、医学部を卒業して医師になった、当選を重ねて国務大臣になった…など、すごい肩書きはたくさんあります。もちろん、その地位を得るために行った努力は評価されてしかるべきです。しかし、その地位が、そのまま一般社会で貴族と平民くらい階級のような意味を持つと思ったら大間違いです。

どんなに重要なポストであったとしても、結局は周りのサポートや様々な幸運が重なって初めてそのポストに付けている訳で、その地位の大半を占めるのは努力じゃなくて運です。

だから、大学院生になっただけ、修了しただけで天才的な頭を持っていると自負しているそこいらのみなさんに告げるなら、あなたは単に運が良かっただけなのです。「大学院へ行けるお金と暇があった」という幸運ね。
研究者とされる人が社会的に尊敬されるためには、地位や紀要への掲載とかではありません。あなた方の行った研究が、人類が環境に負荷を与えず、平和に暮らしていくために役立つような研究であったことが証明されて初めて尊敬されるのです。

「そんな研究なんて、そうそうできる訳ないじゃん」

と思ったあなたに一言。そう、その通り。そもそもそんな研究はそうそうできないのです。つまり、私の研究も含めて、多くの大学院生の行った研究なんて、社会的に尊敬されるべきものではないのです。
入学を許されて、単位を取って、学位論文で合格させてもらえただけ。
だから大学院生だからといって、修士だの博士だのの学位を得たからといって、それだけで偉ぶること自体が稚拙なのです。そんな稚拙な学生に限って、偉いとされる大学教授や有資格者が威張るところだけを真似るのです。私はそんな姿を見ると、私の方が恥ずかしくなります。

私は「大学院生とは学問とされる分野で論文の制作を義務づけられたオタク」と定義しています。
もちろん、修士課程でも論文そのものは要求されないところもあれば、専門職大学院などもあったりしますから、必ずしもその定義が当てはまるとは思いませんが、「一般的な修士課程」とくくるとそんな感じです。だって、ほとんど自己満足でしょう。ただ、その自己満足的な論文が集積されることによって、大きな研究の礎になるのですから、「自己満足」という評価で上等なのです。

だから大学院生は、他人の批判をする前に自分の身の程を知り、自らが学ぶことに一生懸命になればいいのです。修了した人は、これから学ぼうとする人の質問に対し、親切に回答してあげればいいのです。それができないのであれば、大学院生や修了を名乗らなきゃいいのです。

ただ自慢するだけ、ただ職場の待遇を向上させるだけ、ただ自分よりも劣った人に説教するためだけの学位なんて意味がないのです。

大学院へ行けただけで天狗になっているみなさん、それはダメですよ。人のために役立ってこそです。
posted by まつもとはじめ at 03:42| 神奈川 | Comment(1) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月25日

大学・大学院で学ぶべき作法

いちおう大学院に在学していたことがある者として、または社会人でも大学院へ行くことで研究者の礎を築くことができるという本を編纂した者として、大学院で行われるべき教育がどうあるべきかを書き記しておこうと思います。

1.大学の「学部」は学習の作法、「大学院」は発想の具現化の作法

一口に「大学」といってもカーネギー分類による分類もあれば、大学院には修士課程・博士課程もあるし、専門職大学院という分類もあります。日本においては旧帝国大学か否かという分類、予備校が作り出した偏差値やランキングなどもあるので、同じ学士・修士・博士であっても、その大学によって様々な差があります。

私が長きに渡って、大学の「学部」と「大学院」を見てきたり、または大学評価・学位授与機構の要求する「学修成果」と一般的な大学の「卒業論文」などを比較してみると、学部卒に要求されるのは先行研究をまとめる能力であり、修士に要求されるのはその能力に加え、自ら仮説を立てて事象を検証・論証する能力であるといえると思います。そして博士に要求れるのは修士の能力をさらに拡充させたものといえると思います。
もちろん、一般的な大学では卒業論文を必須としなくなっているところも多いし、修士といっても外国の論文を翻訳してもっともらしくまとめただけのものもあって、そのレベルが一定している訳ではないと思います。

卒業論文(学部卒相当)のあり方
A教授はこういう論文でこう述べていて、B教授はあの論文でああ述べていて、C氏はその著書でそう述べている。私はC氏の述べていることが妥当であると思われる。

修士論文(大学院修了相当)のあり方
A教授はこういう論文でこう述べていて、B教授はあの論文でああ述べていて、C氏はその著書でそう述べている。基本的には私はC氏の述べていることが妥当であると思うが、D説もあるのではないかと考えて検討した。なぜならC説ではこういう部分が足りずにA説が妥当になるし、ああいう部分も説明しきれていない点はB説が妥当であるからである。

ただ、共通していえること、担保しているはずのものは、学士は少なくとも学術論文を読み解く能力、それをまとめる能力があるはずで、修士はそれなりに新しい発想・視点で疑問を抱いて調査して文章としてまとめる能力があるはずです。

まぁ、私の知っている例では、外国の論文をそのまま翻訳すればバレないだろうと考え、剽窃した博士論文で大学教授をやっている人もいますが、まぁ、そういうインチキ君を除き、本当に自分で作成した論文を持っている人は、相応の能力を持っていなければなりません。

だから私は「学部」は学習の作法を学ぶところであり、「大学院」は発想を具現化する作法を学ぶところだと思っています。


2.「善管注意義務」は誤った概念?(私の経験から)

私が在籍していた民事訴訟法の研究室でのやり取りのお話しを紹介します。もう20年くらい前の話です。ある日、私は指導教授と「善管注意義務」についての話をしていました。

法学部を卒業した人なら聞いたことがあると思いますが、善管注意義務とは、善良な管理者の注意義務の略です。まぁ、動産でも不動産でも、きちんと管理する義務を負っている人は、盗難や滅失などに発展しないよう、相応の注意義務を持つぞという話です。いろんな場合に対応できるように抽象的な表現になっていますが、まぁ、「何かを管理する職業(カネを貰っている)の人は、宝石なら頑丈な金庫に保管するとか、不動産なら防火設備を整えておくとか、インターネットのサーバー運営会社ならセキュリティソフトとかバックアップをきちんとしておくなどがあります。

この「善管注意義務」に対する言葉は、「自己のためにするのと同一の注意、固有財産におけるのと同一の注意義務」と呼ばれます。
空港などで他人から「この荷物を見ててくれ」とお願いされて、自分のそばに置いておいたところ、ひったくりに盗られてしまった場合などは有償で請け負った訳じゃないし、親切心で見張っていただけなのに弁償しろと言われるのはかわいそうだから、放り出しておいたのではなくて自分の荷物と同じような管理の仕方だったのなら、相応の責任を免除・軽減してやるべきだろうという概念です。

この概念について、いちおう、理屈としては理解できるのですが、私は学部生の頃から「何かおかしい」と思っていたのです。
「自己のためにするのと同一の注意義務」より「善管注意義務」の方が強いとする、この概念に、私はひっかかってしまうのです。

私は3歳くらいから高校生まで、13年ほど県営の賃貸住宅に住んでいました。
この県営の賃貸住宅のそばには、同じ工法で建てられた分譲住宅もありましたこ。

築年数が同じはずなのに、賃貸住宅はヨゴレ放題、落書きも多く、ゴミも散乱していました。
一方、分譲住宅の方はすごくキレイで、掃除も行き届いていました。つまり住人が、きちんと管理していたのです。

それを見て、私は賃貸住宅(他人の物)を借りる人と、分譲住宅(自分の物)を使用する人は、おのずと「自分の物」に注意を置くのではないかと素朴に思っていたのです。
人は「自分の物」は大切にして、「他人の物」はぞんざいに扱う。だから、善管注意義務という概念を聞いたとき、「何かおかしい」と思ってしまったのです。

それを師匠に伝えたら、「松本君、その視点はすごく面白い!」と言われました。
もちろん、私のこの発想は、ただの屁理屈でしかありません。しかし、「他人の物」と「自分の物」の区別やその境界線はいったいどこに敷くべきなのか、そもそも県営住宅というのも名義は神奈川県の物だけど、私は神奈川県民な訳で、私の物でもあるわけで…と考えていくと、私がいま争っている県立高校跡地の県有地の売却差し止めの訴訟にも絡んで、ややこしい話になります。

私は別にこの善管注意義務について論文を書くつもりはないし、今の一般的な法解釈は正しいと思います。ただ、私が素朴な疑問を口に出して、その発想を学生の戯言とせずに、教授が真剣に話に乗ってくれたのがすごく楽しい思い出となっています。
そう、このやり取りこそが、大学院の面白いところなのではないかと思うのです。

これが資格試験予備校であれば「善管注意義務ってのがあって、これは義務を負うべき者が…」なんて話でおしまいになるところですが、大学院では「我々が学んできた善管注意義務そのものの定義がおかしいのではないか」という発想が許されるのです。

以前、政治家の小沢一郎さんの勉強会に出席したとき、小沢さんが「日本国憲法には、内閣総理大臣以下の閣僚が全員死亡したときの手続きが書かれていない」と指摘したとき、私はハッとしました。そうだ、確かにそこはおかしい!…と思いました。憲法改正はいつも前文や9条が問題になるけど、この手続きがきちんとなされていないという点はきちんと認めて、改正論議を検討すべきと考える人の意見も尊重しなければいけません。

私が修士論文で書いたサイバースペースにおける証拠調べは書証か検証かというネタもそう。それまでは書証説が有力だったけれど、その後は夏井高人教授(明治大学・元裁判官)の検証説が有力になりました。(私はちょうどその過渡期に修士論文を書いた)

決まりきったこと、常識的なことに疑問を抱き、それを口にすること、文章にすること、発表の場できちんと述べるスキルが鍛えられる場が大学院なのではないかと思うのです。


3.指導教授や大学院生に求められるスキル

こうして考えてみると、そもそも「研究」というのは、今までに無かった概念を作り出したり、既存の概念を覆すことに意義があります。

「そんなことできるはずがない」というものをやり遂げること、「そんなの非常識だ」と思われたことを常識に変えることこそが研究の真骨頂なのであります。

もちろん、そういう研究の裏側には、「いろんな検証を受ける」という手続きを要します。
学位論文であれば指導教授の指導を経るとか、査読を受けるといったものです。学会誌などに投稿すれば、その論文や研究無いように疑義があれば、適正な手続き(反論・反証)によって真偽を問われることになります。
そしてこの手続きは大学院に限ったことではありませんよね。
世の中に起こっていることのたいていはこのプロセスによって、その正確さを問われます。
だから、きちんとした検証も論証もされずに発せられた言質を真に受けてはいけないのです。匿名の人物が発したツイッターや掲示板の発言などはその最たるものですね。

どこかの大学教授がツイッターで有名なくだりで、「放送大学を卒業して教授になっている人がいるけど、これってありですか? 本当の大学を卒業していない。大学というもの自体を理解していない」なんてことを、当の放送大学学長に匿名で言い放ってしまい、炎上したこともありますね。
しかし、放送大学の卒業生がダメである理由について、検証可能な事例を並べ、論理的に述べ、実名で個人的意見としての説明していれば、正しい批判にもなり得たわけです。
匿名で、検証不可能・特異な事例を並べて他人・他大学を中傷し、その中傷した本人が実は大学教授だったというのが恥ずかしい話なのです。

つまり、指導教授は学生の持つ、既存の概念をうち崩すような発言や発想を、根拠無く摘み取ってはいけないのです。摘み取るのであれば、きちんと論理立てて、先行研究や議論の上でやるべきなのです。
よって、学生は信頼できる指導教授の下で、自由な発想を述べ、積極的に議論すべきで、議論を挑まれた教授は、学生のやる気を損なわせない範囲で議論に胸を貸すべきなのだと思っています。
教授にはこうした学生に付き合うことのできるスキルが必要で、学生はまともな議論で対抗してくる教授に挑むスキルが必要なのではないでしょうか。


4.現在の大学・大学院に妥当な作法を教えるスキルはあるのだろうか

この記事は、私が受けてきた大学教育、大学院で受けた教育をベースに述べています。だから、妥当かどうかなんてことは、あくまで私個人の独断と偏見に満ちた指標でしかありません。
しかし、たくさんの大学・大学院を見てきた人なんてさほどいないだろうし、それが妥当か否かなんて、正しく評価することなんてできないと思います。

だから、わずかな時間で「大学教育はこうあるべきだ」とか、「最近の大学生はレベルが低下している」なんて語っている人を見ると、苛立ちを覚えるのですが、まぁそれは置いておきます。

そもそも、最近の大学はそのカリキュラムの中で、ある学術的な事項についてしっかり書籍や論文を読ませ、一定の分量の文章を書かせる訓練をしているのでしょうか。学生が教授と直接話ができる機会は講義の合間かゼミくらいしかないと思いますが、学生が自由な発想を口に出した時、既存の概念や常識で無下に打ち消していないでしょうか。
脳科学者などの話を聞くと、人が疑問を抱いた瞬間がもっとも脳が活性化すると言われていますが、教育を施す立場の人たちは、それを打ち消すようなことをしていないでしょうか。

よくある予備校での教育に「それは入試に出ないから勉強しなくていい」という指導法があります。確かに予備校の使命は試験に合格させることですから、それは致し方ないのですが、大学において学生が疑問を口にした時、「それは違う」、「資格や単位に関係ない」と批判し、疑問を持つこと自体を批判してはいないでしょうか。
疑問を抱くことそのものを批判された学生には、もう匿名の掲示板や実名を出さなくてよいSNSしか疑問を出せる場所が無くなってしまうのではないかと思ってしまいます。

数年前、私はある大学教授が発表した文章に疑問を抱き、メールで質問したところ、論点をずらした説明しかなされず、とても残念に思いました。私の疑問は教授の誤りを指摘するものだったのですが、まぁ、教授も非を認めたくないのだろうと思って放置していたところ、数ヶ月経ってから、執拗な嫌がらせを受けました。教授は自分の理論に対する疑問を人格批判として捉えてしまったのかもしれませんが、その嫌がらせは続きました。教授は、とある大学の外部評価委員を行うくらい、著名な方なのですが、私にしてみれば、とんでもなく卑屈な方であります。こういう人が大学にいるべきではないと思っていて、いずれ当該大学の学長に直接抗議することになりそうです。なぜなら、自らの研究を批判されて、正々堂々と反論・訂正できない男だからです。

まぁ、こういう教授は別にしても、疑問を抱いた学生の話を聞かないとか、自分の不勉強がバレることを嫌がったりして、面倒くさがって説明しないなんてことが多いのではないかと思うのです。実際にいますよね。

そもそも、大学は落ち着いて学ぶ環境ではないという批判も多くあります。
昨今、特に私立大学は授業料収入の落ち込みを懸念して、とにかく学生を増やそうとします。AO入試や推薦入試が増えているのはその証左だと思いますが、一般入試よりも附属や推薦枠を拡充してとにかく学生を確保しようとします。するとおのずと大学進学率が上がってきます。
大学進学率が上がってくると、高校生は否が応でも大学に進学するよう周囲から勧められます。だって大学へ進学するのが多数なのだから、進学しない少数に居続けるって、心理的にストレスを感じますよね。
しかし、昨今は経済的に困窮する家庭が多いため、学費を捻出するためには貸与型奨学金に頼るか、アルバイトを強いられます。勉強よりも学費を稼ぐことが中心の生活になってしまいます。
そんな中で大学3年の後半くらいからは恐怖の就職活動を行うことになります。それも、大学を出ていれば圧倒的に有利ならともかく、何十社も受けてどれもダメという恐怖が付きまとうのです。
一方、大学は教授や准教授などの正規教員を増やすと人件費が高騰するので非常勤講師の割合を増やすことになります。非常勤講師は収入が少ないから、講義のコマ数を稼ぐためにあちこちの大学へ飛び回らなければならず、時間の制約上、学生の疑問になんか答えることができません。
そもそも学生自身、アルバイトや就職活動などで落ち着いて勉強できないのだから、疑問はそのまま放置するのが得策で、楽しく学ぶどころではなくなってしまいます。

こんな状況を見てみると、今の大学はきちんと学ぶことができないようになってきているのではないでしょうか。
卒業論文を課さない大学の割合が増えていることから見ても、この状況は深刻化していると思います。

そう、実は私は大学という教育機関は既にオワコン(=終わったコンテンツ)なのではないかと思っています。大学教育そのものに関わっている訳じゃないから軽々しく言えてしまうのは申し訳ないのですが、全ての大学とは言わないけれど、AOや推薦の割合を増やし、一般入試の枠を狭めて合格偏差値を上昇させてブランド化を図る大学など、卑しい商人がやりそうな商法じゃありませんか。
少子化の影響で若者が減っている現在、本来的には4年制大学という、膨大な助成金を必要とする教育機関は、縮小・縮減させていくべきなのではないかと思うのです。

大学をオワコンなどと批判しつつも、私は大学が好きです。お世辞抜きで、指導教授に恵まれたと思っています。
不勉強を叱られたりもしましたが、私の発想や疑問を無下に批判することなく、それをどうすれば論文になるか、かなり細かく指導していただきました。だから、私にとって、良き大学教授は、学生の発想や疑問を大切にしてくれる教員のことだと思っています。
そんな出会いがある場所が大学であり、大学院なのだと思っています。

やはり大学の数は増え過ぎだと思います。4年制大学の半分くらいは2年制の短大にしてしまうくらいがちょうど良いのではないでしょうか。そして優秀な卒業生であれば、容易に大学3年次に編入できるようにするというのが無難ではありませんか。

なぜか高等教育を論ずる研究者は、自分たちの職を案じてしまうせいか、ここの部分に言及する人が少ないですよね。私もどこかの大学教授だったらそういう発想になってしまうかもしれませんけどね。

社会人大学院生のススメ―働きながら、子育てしながら博士・修士 [単行本] / 稲垣 諭, 長沼 貴美, 如月 真実, 木村 知洋, 宮子 あずさ, 渡辺 治 (著); 松本 肇 (編さん); ぼうご なつこ, 氏ムシメ (イラスト); オクムラ書店 (刊)
社会人大学院生のススメ―働きながら、子育てしながら博士・修士

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2013年11月06日

かわいそうな大学教授

私は大学院時代の師匠に「松本君、論文を書けない大学教授って知っているか?」と話をされたことがあります。

大学教授になってから、病気をしたために書けなくなったという話ではありません。
これといった論文を発表することなく、スキルもないまま、大学の教授になれてしまった、不幸な人の話です。

大学院で博士を取得し、それなりに論文を発表し、あちこちの大学で非常勤講師を務めながら、なんとか食いつないでいる、高学歴ワーキングプアがあちこちに存在する一方で、たまたま採用された大学でポストが空いてしまったために、とんとん拍子で教授になれてしまった人がいます。

それって、ものすごく美味しい話です。彼はこれといった論文を発表せず、有名大学を出たことと、指導教授が業界では超有名人だったということから、その有名教授の弟子というだけで、無名私大の教員というポストに恵まれてしまった人がいたのです。

ポストに恵まれすぎたということは、逆にいえば、学者・研究者としての体力を鍛えられず、いきなりエースで4番の地位に祭り上げられてしまうということと同義です。
その結果、その恵まれすぎた教授は、自分の研究スキルや論文作成能力のなさが露呈してしまうことを恐れ、論文らしい論文を書かないままま、50歳を過ぎてしまいます。

論文を発表する機会を自ら拒絶し、批判・批評に曝されることのないようにしていくと、加齢とともに、研究スキルはますます稚拙になってしまいます。論文を書かないことを批判されないよう、他の研究者が手を付けないような、特殊な分野を勉強し、他人と議論する時は、その特殊な分野を口にして煙に巻くということで、乗り切ります。

勤務しているのは無名の私大だから、大学院に進学してくる学生も大したことはないのですが、それでも学生は「この教授、ひょっとしてアホなんじゃないか」と気づきます。
しかし、学生の分際で指導教授を批判するわけにもいかないから、大学院生は黙って卒業するか、中退して他の大学院へ進学してしまいます。

そうしているうちに、またポストが空いて、その教授は学部長になってしまいました。

論文をほとんど発表していない、自称研究者で大学教授。それでいて大学院生の指導もできるという地位。そして学部長です。それでも誰も批判しないうちは、「スキルの無い教授がスキルのない学生を輩出するだけ」となるだけだから被害は少ないのですが、教授ポストが空いて、新たに大学教授を採用する段になったとき、論文の数も多くて頭脳明晰な研究者を教授として招き入れようではないかという話が沸き上がり、当の研究者にオファーをした後に、学部長はとんでもない行動を起こします。

「これから招聘しようとしているあの研究者は、過去にこんな愚かな過去がある」と、学内で怪文書を流布したのです。そして教授会で、さも他人がばら蒔いたかのごとく、「このような文書が回っているので、彼の招聘はやめようかと思う」と述べます。

しかし、教授会では誰も問題視しません。なぜなら、その文書を流布した犯人は学部長であろうということがすぐに予想できてしまったのです。
そして教授会では、坦々と「そんな文書はデマであろう」、「これといって裏付ける証拠はない」という判断になり、教授として招聘することが確定します。
テレビドラマなどでは、ここで「学部長、そんな文書を撒いてはずかしくないんですか?」と正義感を持った主人公が出てくるところなのですが、誰も学部長を咎めません。
なぜなら、他の教授は、誰もが学部長に研究者としてのスキルがあるとは思っておらず、彼の地位を脅かす後進が出現したことで怖がったことを即座に見抜いたのです。それどころか、学部長が普段から論文をほとんど書いていないことなどから推察して、彼の学位論文についても剽窃ではないかと疑われていたほどだったのです。
だから、水面下では「あの学部長がやった」と理解した上で、優秀な研究者を教授として招き入れたのでした。

ポストが空いたからといって、その地位にそぐわない人材を就任させてしまうと、後にその大学の品位を貶める、とんでもないことになってしまう実例なのでした。

学部長の人生は、一見すると、一流大学を卒業し、学位も取って大学教授になり、学部長まで務めるという、すごく充実した人生に見えます。
しかし、好きな学問を追求したわけでもなく、誰かと切磋琢磨したわけでもなく、大学教授を演じるだけの虚飾の充実感と、ただ生きていくためだけに、学者ごっこをしていただけの人生だったのではないでしょうか。

これほど悲しい大学教授って、いったい何なのでしょう。

その学部長はどこまで知ることができたのかはわかりませんが、あの怪文書を流布させた張本人は自分であると、いつかバレる日が来るのではないかと、戦々恐々として定年の日を迎えたのではないでしょうか。

このような残念な教授が1人いるせいで、大学教員のスキルがある人が正規雇用されず、社会の底辺を歩かされていると思うと、すごく残念です。

しばしば、テレビドラマなどではスキルの乏しい研究者(例:ガリレオに出てくる栗林宏美助手)がいます。しかし、スキルが無いのに、肩書ばかりが大きくなってしまう不幸は、本当に不幸です。なまじ教授クラスになると給料が高いし、権限も多いものだから、もっとすごいポストが用意されないと、そうそう辞めるわけにもいかない。定年まで勤めたくなるのが人情です。

不幸な教授が不幸な学校を運営し、不幸な学生を生み出していく。悲しいスパイラルなのではないかと私は思います。
posted by まつもとはじめ at 03:02| 神奈川 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする