2013年03月18日

大阪産業大学やらせ入試事件



この事件について、私に意見を求めるテレビ局があったので、簡単に私の意見を書いておきます。

まず、この事件について、私は報道ベースでしか情報を持ち合わせておりません。実際に取材した訳ではなく、あくまでも報道されたことが真実であるという前提でお話しします。
よって、前提となる事実が異なっていた場合は、私の意見も変容していきますので、ご理解ください。


私学助成金は大学の総予算の半分を助成する
大学は、「私学助成金」と呼ばれる、国からの助成金で、その予算の半額までを助成されることになっています。つまり、年間の総予算が30億円の大学なら、その半分の15億円が助成されます。
残りの15億円は、言うまでもなく、入学金や授業料収入、受験料収入、学校施設の使用貸借収入(資格試験会場とか)で賄われています。
これは逆にとらえると、年間15億円の収入があるのなら、同額の15億円を国が給付するというものです。
すると、大学は学生を増やし、学費を値上げするなどして、年間20億円の収入を上げることができるなら、同額の20億円が給付されるのですから、経営陣側からすれば、営業努力をすればするほど、税金が投入されるのですから、必死に学生を集めようとします。
しかし、これも度を過ぎると、血税の無駄遣いになるし、狭いキャンパスに大量の学生が押し込まれると学習環境が悪化するので、文科省は当該大学のキャンパスの広さや施設の充実度を総合的に判断して「定員」を設定します。

定員は学生募集の目安であって、上限ではない
大学の、いわゆる募集要項には、定員が書かれていることが多くあります。
例えば、「法学部は500人」、「文学部は400人」という感じです。

私立大学の場合、現実にはその定員を超える合格者を出しています。
特に中堅以下の私立大学では顕著です。例えば500人定員の学部で、1000人という合格者を出すこともありました。合格者全員が入学したら、いきなり2倍なのですから、本来はありえない話なのですが、中堅以下の私立大学では、どうしても入学辞退者の割合が多くなってしまいます。
東京六大学に入る私立A大学と、神奈川県の私立K大学。偏差知的にはほぼ同じでも、どちらでも通える環境であるなら、やはり東京六大学に入っている方を選びたくなるものです。入れる大学は1校だけなのに、本命の大学と滑り止めの大学を併願するのはごく当たり前の行動です。
すると、一般に偏差値が低ければ低いほどその大学は滑り止めに受験される大学になってしまうのですから、合格者の半分くらいが辞退するなんて大学は悲惨です。
そんな事情をふまえてか、文科省は「定員」に対し、一定の割合まで定員超過を認めるとしています。問題となった大阪産業大学の平成21年度の定員は、1.37倍だったそうです。この基準を超えて入学させた場合は、私学助成金を「減額する」とか「給付しない」などのペナルティが科せられます。

すると、大学側は、年々によって増減の激しい併願一般入試は少数精鋭の別枠にして、指定校推薦、一般推薦、附属高校からの内部進学、AO入試など、ありとあらゆる手段を用いて、前年の秋くらいまでに一定の入学者を確保します。
問題となった大阪産業大学の問題の平成21年度入試では、経営学部の定員は465人で、補助金受給には入学者数を637人以下に抑える必要がありましたが、平成20年12月までに、推薦入試などで600人近くの入学が決定していました。その一方で、一般入試の募集定員は78人としていたため、入学者総数が637人を上回る見通しとなっていたとのことです。
募集定員を78人とした場合、入学試験で一定以下の点数を取らない限り、得点上位者から順に78人を合格させるのが普通です。
推薦などで600人が合格し、一般入試できっちり78人を合格させたら計678人。637人以下に抑えるためには、自主的な入学辞退者が40人くらいいなきゃいけない。しかし、推薦入学の合格者が辞退するケースは少ないし、一般入試の合格者78人中40人が辞退することを期待するのはかなりリスキーです。

やらせ入試は「詐欺」ともいえる
こう考えると「附属高校の優秀な高校生たちに受験させ、一般入試78人の合格者のうち30人を占めさせる」というのは、大学の入試偏差値も上がるし、なるほど合理的です。ただしそれはバレなければの話であります。
これは合格者が78人あると思った受験生を冒涜することになるし、受験料を払って受験した学生たちについては、合格要件を満たしても合格できない賭けに参加させられたのですから、詐欺的といっても良いと思います。もちろん、その受験料収入と同額の助成金が国から支払われるのですから、いずれにしても問題ですね。

大阪産業大学経営学部の経営手腕はある意味すごい
学生を確保して経営を安定化させるために推薦入試を充実させたこと。
それにより、私学助成金を減額される限界の入学定員を超えそうになるくらい学生を集めることができたこと。
バレたとしても、組織的な不正行為とされないよう、様々な工夫がなされていること。(おそらく高校には「偏差値を上げるため」と説明し、教授会などからの批判を受けないように秘密裏に行動したであろうことは想像できます)
ただ残念なのは、ここまで巧妙に仕組むスキルがあるのなら、やはり推薦入試で事前に合格者数を厳選しておくべきだったことだと思います。
かつて定員オーバーしてしまった立命館大学がこのような反省を行っていることからも、今後の適正な入試がなされるよう、心からお祈り申し上げます。
特別転籍に関するお詫びとご報告(立命館大学)


大産大で「やらせ受験」 補助金受給目的、付属高生徒に依頼か 産経ニュース2013.3.17 19:29
 大阪産業大学(大阪府大東市)が平成21年度の入試をめぐり、付属高校(大阪市城東区)に対して成績上位の同校生徒に経営学部を受験させるよう依頼し、生徒に受験1回あたり5千円の謝礼を渡していた疑いがあることが17日、大阪府などへの取材で分かった。

 内部告発をもとに発覚。国からの補助金がカットされる定員超過を避けるため、入学意思のない生徒で合格枠を埋める狙いがあったとされ、報告を受けた府や文部科学省が調査に乗り出したほか、大産大も第三者調査委員会を設置する。

 国の「私立大学等経常費補助金」に関し、当時は入学者数が定員の1・37倍以上になった学部には支給しない規定があった。

 告発によると、大産大経営学部の21年度の定員は465人で、補助金受給には入学者数を637人以下に抑える必要があったが、20年12月までに、推薦入試などで600人近くの入学が決定。一般入試の募集定員は78人としており、入学者総数が637人を上回る見通しとなっていた。

 このため、大学側は当時の付属高教頭に対し、入学意思がなく成績優秀な生徒に経営学部を受験させるよう依頼。元教頭の指示を受けた担任教諭2人が3年生9人に受験を依頼し、一般入試を日程別に延べ数十回受験。合格した生徒に1回あたり5千円が渡された。

 依頼を受けた合格者で実際に入学した生徒はなく、大学側は入学者数を意図的に抑制して基準を満たした結果、21年度の補助金約10億円を受け取ったという。

 大産大の幹部は「関係者に事情を聴き、事実確認を進めたい」としている。
posted by まつもとはじめ at 23:42| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月20日

大学レポート課題の「ウィキペディア禁止」は教員スキル低下の証左

近年になって、大学教員から、「最近の学生はインターネット情報をそのままレポートに転載・引用して提出する」と、学生の手抜きを問題視する発言や、むやみにネット上の情報をレポートに使ってしまう学生の行く末を案ずる話が聞かれます。
例えば、「日本の衆議院総選挙についてまとめよ(レポート用紙5枚以上)」なんて課題の場合、インターネット百科事典「ウィキペディア」のページの解説ページをコピー・ペーストして、こんなふうにまとめてしまうという感じです。

衆議院議員総選挙について
衆議院は全国民を代表する選挙された議員で組織される(日本国憲法第43条1項、参議院も同様)。日本国憲法下では衆議院解散による総選挙は衆議院解散の日から40日以内に総選挙を行う(日本国憲法第54条1項前段、公職選挙法31条3項)。一方、任期満了による総選挙は任期満了の日から前30日以内に行う(公職選挙法31条1項)。任期満了による総選挙の期間が国会開会中または国会閉会の日から23日以内にかかる場合においては、国会閉会の日から24日以後30日以内に総選挙を行う(公職選挙法31条2項)。また当規定により、任期満了直前に解散をすることによって理論上は投票日が任期満了後となることもある。
ちなみに、戦後任期満了で選挙を実施したのは三木内閣の1回だけである。
通常、「総選挙」とは衆議院議員の選挙にのみ用いられる語であり参議院議員の選挙は3年ごとに半数を改選するものであるから「通常選挙」と呼ばれる。公職選挙法31条も「総選挙」を任期満了あるいは衆議院解散による衆議院議員の選挙を指す語として用いている。ただし国会議員の選挙の公示について定めた日本国憲法第7条4号の「総選挙」については同条が「国会議員の総選挙の施行を公示すること」と規定しており、衆参問わず各議院の国会議員を選出する基本的な選挙の公示を天皇の国事行為として定めた趣旨であると解されることから憲法7条4号の「総選挙」には参議院議員通常選挙が含まれると解するのが通説である[2]。公職選挙法により衆議院議員総選挙の期日は少なくとも12日前に公示しなければならないとされている(公職選挙法31条4項)。
選挙は投票により行う(公職選挙法35条)。衆議院議員の選挙においては小選挙区選出議員及び比例代表選出議員ごとに一人一票を投票する(公職選挙法36条)。衆議院議員総選挙の選挙事務の管理については特別の定めがある場合を除くほか、小選挙区選出議員の選挙については都道府県の選挙管理委員会が管理し比例代表選出議員の選挙については中央選挙管理会が管理する(公職選挙法5条)。選挙権・被選挙権・選挙方式の詳細については次節以下参照。
選挙された衆議院議員の任期は4年である(日本国憲法第45条本文、ただし解散あり)。衆議院議員の任期は総選挙の期日から起算するが(公職選挙法256条本文)、任期満了による総選挙が衆議院議員の任期満了の日前に行われたときは前任者の任期満了の日の翌日から起算する(公職選挙法256条但書)。
衆議院解散による衆議院議員総選挙が行われたときは、その選挙の日から30日以内に国会を召集しなければならない(日本国憲法第54条後段)。衆議院解散による総選挙後に召集された国会(日本国憲法第54条により召集れた国会)を特別会(特別国会)という(国会法1条3項)。一方、任期満了による衆議院議員総選挙が行われたときはその任期が始まる日から30日以内に臨時会(臨時国会)を召集しなければならない(国会法2条の3第1項本文)。ただしその期間内に常会(通常国会)が召集された場合、またはその期間が参議院議員通常選挙を行うべき期間にかかる場合はこの限りでない(国会法2条の3第1項但書)。
なお、衆議院議員総選挙の際には同時に最高裁判所裁判官国民審査が行われる(憲法79条2項)

以上、ウィキペディアの「衆議院議員総選挙」の概要部分を全文引用

学生は六法で日本国憲法の条文を調べるわけでもなく、広辞苑を手に取るわけでもなく、政治学の教科書を開くわけでもなく、ただインターネットの検索サイトで「衆議院議員総選挙」と検索窓に入れて、クリックするだけで、上記のような情報が無料で入手できてしまいます。ウィキペディアの情報は、それなりにクオリティが保たれている記述も多いため、特にこれを加工することもなく、引用元も書かず、そのままワードに貼り付けてしまえば、それらしい形になります。
そして自分の名前を書き、レポート提出に適当な体裁に整えて、提出します。
学生としては、可能である限り、なるべく苦労せず、コストをかけず、時間もかけずにレポートを作成し、大学の単位を得たいと思っているのですから、ついこのようなサイトの情報をコピー・ペーストしてしまうのでしょう。
こういうインターネットの情報をコピー・ペーストしてレポート化してしまう行為というのは、良いのでしょうか。それとも批判されるべき行為なのでしょうか。

■怠惰になったのは学生ではなく学校や教員の方だ
本来的、または一般的には、「大学生がネット情報のコピペをしてレポート提出するなんて、恥ずかしい行為だ」と、批判されるべき行為とされます。そして、私もそう思います。
しかし、この問題の本質を考えていくと、「学生が怠けるようになった」などと、短絡的に学校職員や教員が学生を批判できる立場ではないことがわかります。

私の知人の大学教員は、「最近の学生は自分で文章を考えずに、ネット情報をそのままコピーしてレポートを仕上げてくる。これで良いと思っているのか!!」と、学生の不勉強を嘆き、憂いています。
現場の教員は「けしからん」で済むかもしれませんが、これをもう少し俯瞰して、「大学の問題」とか、「大学業界全体の問題」としてとらえると、見方がだいぶ変わってきます。

ハッキリ言いましょう。
学生がコピペでこんなレポートを提出するのは、ズバリ、大学側が手抜きをしているのからなのです。
大学側が、きちんとポリシーを持って教育していれば、こんな事態には陥りません。
教員や職員が、その教育方針をきちんと考え、遂行していないから、こんなことが横行するのです。

■論点や模範的解答の無い設題が原因
例えば、上記のように「日本の衆議院総選挙についてまとめよ」という、いくつもの論点が含まれる問題について説明せよというのであれば、無駄に字数・枚数を増やすような設題ではなく、答えやすい形にすれば良いのです。

【例題】
(1)日本の衆議院総選挙について、1200字程度で説明せよ
(2)日本の衆議院総選挙について、あなたが抱く制度上の問題点を1つ挙げて論ぜよ
(3)日本の衆議院総選挙と参議院通常選挙の違いをA4用紙(1200字)5枚程度で説明せよ


このように、「何をどうまとめれば適切なレポートになるのか」を、出題の段階で明記しておけば、文章作成経験の無い学生でも、差し当たっての到達点や着地点がわかります。
その上で、(1)であれば字数という制限がある以上、単なるコピペを防ぐことができ、(2)も問題点を挙げろとあるのだから、1票の格差や比例重複立候補の復活当選が民主主義を反映するためのものなのか否かという問題を知ることができます。そして(3)なら、衆議院と参議院の選出の違いを比べることで、プロセスの違いによる国会議員の性格差(例えばタレント出身議員のスキルとか)を解説しなければなりません。つまり、きちんと推考された設題を与えることによって、何の考えも持たずにコピペしてしまう事態を防ぐことができるのです。
「日本の衆議院総選挙についてまとめよ」と、漠然とした設題を受けて、制度を説明すればいいのか、問題点を挙げればいいのか、自分の考えを述べるべきなのか、自らが立候補して当選する方法を書けばいいのか、何冊かの学術書を読まなければならないのかが明確でない中で、学問の素人がいきなり合格点のレポートを書けるわけがないのです。

このように指摘すると、ある大学教授はこう答えます。

「何が問題になっているかを自ら見つけられるよう、わざと論点をぼかして出題しているのだ」

確かに、無理難題気味のレポート課題を出題されると、まじめな学生は図書館で選挙制度の本を何冊か借りて読みます。各国の選挙制度の違いを調べたり、予備知識的な制度解説を頭に入れようとします。こうしたプロセスを踏むことによって、一部のまじめな学生は、このレポート課題をきっかけに優秀な大学生となり、卒業後は優秀な大学院生となり、研究者の道を進むかもしれません。
しかし、それは、学生全体の1%の天才・秀才を見出す方法としては使える方法かもしれませんが、7〜8割の学生のレポート作成能力を高めるために適した方法とは思えません。

合理的に単位を修得していきたいと思う学生なら、「日本の衆議院総選挙」について、とにかく「レポート用紙にまとめる」ことが課題なのですから、ウィキペディアをそのままコピペすれば、教員の設問をクリアしたことになるという思考になるのは簡単に想像できます。
結局、99%の学生は努力も苦労も回避して形だけのレポートを完成させ、単位を得ることになります。

■レポートをきちんと添削・返却しないことも原因
学生が手抜きをする理由の一つは、教師がきちんと添削・返却しないことも原因です。

お題に沿った内容で分量を満たしていれば合格とされるとわかっている場合、人はどうやって手を抜くか。それは簡単です。「適当な分量のレポートを期日までに提出すればいい」のです。ここに「添削される」こと、「返却されること」が加わらない限り、人は手を抜きます。

ちょっと考えればわかります。
例えば私の小学校時代、夏休みには、毎朝学校へ行って、校庭で行われるラジオ体操に参加しなければならないという課題がありました。
初日はきちんと参加して、手足をきちんと伸ばして体操を行います。しかし、特に誰も注意する人がいないから、2日目、3日目と、体操のクオリティは適当になっていきます。1週間もすると、出席カードにハンコを押してもらえばいいのだということに気がつき、遅刻して行くようになり、体操の終了間際に駆け込んでハンコを貰うこともしばしば。そして家族旅行で2週間不在の友達がいることを知って、行かなくてもいい言い訳を知ってからは、私も「長期の旅行に行く」と告げて、参加することをやめました。

よく考えてみれば、人は誰も見ていないところでは怠けるものだし、評価されないことには努力もしません。
独創的な考え方を書いても、けっこうな分量を調べても、ただ「提出した」だけで、「単位が得られる」のであれば、努力するモチベーションが湧かないものです。

さて、大学の授業でレポート提出を求める場合、その教員のみなさんは、きちんと添削しているのでしょうか。そして採点したレポートを返却しているのでしょうか。
少なくとも私の卒業した神奈川大学では、私が提出したレポートや小テストの答案を返却されたことはありません。
その後、大学院生として、裏方として何人かの教授の授業サポートをしたことがありますが、せいぜい提出の有無のみを記載するくらいで、教授が採点作業をしていたのは学期末試験くらいでした。

■レポートの書き方を教えるカリキュラムが無い
私は今までに、複数の大学や大学院に在籍しました。
しかし、「レポートの書き方を教える」という授業やカリキュラムが無いことに驚きました。厳密にいえば、大学院の論文指導などは、そういうカリキュラムに類することになりますが、大学院はあくまで「論文」の指導であって、それは普通にレポートを作成できる人が、もう一歩進んだ学術論文の書き方を鍛えてもらうための授業です。
しかし、本来的には、4年間の大学生活の最初のところ、つまり大学1年生の時に、大学で通用するレポートの基本的な書き方を学ばなければならないのです。ここで学ばなければ、これからの4年間のレポートは苦痛でしかないのです。
多くの大学教授は言います。

「大学生になったら、授業で必要なレポートの書き方は自分で勉強し、会得するものだ!」

このように考える人も多いと思います。基本的には私も同意します。しかしそれは時代が違うのです。
18歳人口の、例えば20%しか大学へ行けなかった時代の大学生と、60%が大学へ行く時代の大学生と、単純比較はできないのです。
もし「学力」という習熟度を測る絶対的な物差しがあり、数十年前の18歳と現代の18歳の学力が全く同じであったと仮定します。
すると、上から2割をすくい取った場合の大学生と、上から6割をすくい上げた場合の大学生を、それぞれ押し並べて平均的な大学生像を推察すると、明らかにレベルが低くなるのです。これは当然です。
かつては大学へ行けなかった学力でも大学へ行けてしまうというのは、平等に教育が与えられるという観点からは素晴らしいようで、学力の低い大学生を多く生み出してしまうのですから、逆に恐ろしいことになるのです。

あくまで一般論ですが、学力が上位の学生は物事を理解する能力が高いのですから、学力が上位になればなるほど自己学習するし、レポートの作成能力も向上します。
すると、今の大学生を一般化すると、自分でレポートの作成方法を勉強できて、その能力を自ら向上させられる人は少なくて、レポートの作成方法を勉強する方法も知らず、自ら向上させることもできない人が多いことがわかります。

こうなると、一口に「大学生」といっても、その大半は、レポートの書き方を知らない上に、大学1年生の時点で訓練されなければ、妥当な形式・分量・書き方のレポートを知らないまま進級してしまうのです。
それでも、かつては「卒業論文」と称する、2〜3万字程度の文章を提出しなければ、大学を卒業することができませんでした。そこで大学生は4年になったら訪れる卒業論文制作に向けて本を読み、レポートの書き方を学びました。そして教授も懸命に指導して成果物の作成サポートを行ったものですが、今では卒論を不要とする大学が多数を占めるようになってきたのです。

つまり、今の大学生は能力が低いとか、学力が低下しているという評価は必ずしも正しくなく、レポート作成の基本を学ばせるカリキュラムを用意せず、または卒論指導を不要として、文章作成能力の有無に関わらず卒業まで導いてしまう、大学側の制度上の問題であることに気づかなければなりません。

■そもそも入試で手抜きをしている大学
現在、日本の私立大学の一般入試は、その多くがマークシート方式(択一問題)で行われています。
簡単にいうと、マークシート方式による出題は、知識量が問われる試験です。
マークシート方式には、論理的な思考力を問う問題もありますが、それでも四肢や五肢択一という、複数の選択肢に必ず1つの正解が入っている試験形式です。
(まれに「ゼロ解答」と呼ばれる全て誤答のものや、同じ選択肢の中から複数個の解答を求められる択一問題がありますが、ここでは割愛します)

一方で、小論文方式などと呼ばれる、一定量の文章を記述しなければならない入試方式は、減ってきています。
小論文方式の入試は、一行問題とされるような出題もあれば、一定の文章を読解した上で設問に答えるものがありますが、いずれにしても1時間〜1時間半の時間制限で800〜1000字程度の文章を作成する出題がなされます。
お題はいろいろありますが、例えば社会問題系の小論文で一行問題なら、「三権分立と国民主権について説明せよ」、「社会保障について例を一つ挙げて論ぜよ」のような出題。読解を伴う出題としては、朝日新聞の天声人語1回分を読んで、「この文章を読んで、あなたの考える『幸福』について論じなさい」なんて出題が思いつきます。

マークシート方式は必ず解答が一つ存在する多肢択一の試験です。
それに対し、小論文方式は、自ら答案用紙のマス目を埋め、800〜1000字程度で、それなりのボキャブラリー・校正力・説得力などを要求されます。

比較するまでもなく、マークシート方式と小論文方式は勉強の仕方がまるで違います。同じ科目であったとしても、脳の違うところが使われているのではないかと思うくらい、インプット・アウトプットの作業工程が異なるのです。

こうして考えてみると、小論文方式で選抜された学生は、概して大学のレポート作成作業において「文章の書き方がわかっている」ということになります。そして私の経験則上、大学の一般入試で小論文を選択してきた人がレポート作成で悩んでいるというケースを見たことがありません。

すると、レポート作成の初歩で悩まない程度の大学生を本当に望むのであれば、大学の入試問題は、全て小論文方式にするか、小論文の配点が高い、マークシート・小論文併用入試にするべきという結論でなければおかしくなります。
しかし、これだけ大学生の学力低下が叫ばれている中で、小論文試験を入試で多用する大学なんて、あまり聞きません。私の大学院時代の師匠は「文章を書かせると、学生がどれだけ勉強しているのかがよくわかる」とも述べていました。
それなのに、大学がマークシート方式ばかりに頼るのは理由があります。

マークシート方式は、「コストが安く、手間もかからず、受験生間における不公平感を抱かない試験だから」です。

小論文試験は、人が目で読んで採点しなければなりません。公平に採点するためには、1回の試験で回収した答案用紙を複数(3人以上)の大学教員が取りかからなければならないのです。800〜1000字をざっと目を通すにしても、1枚2〜3分。1000人が受験する試験なら、50時間はかかる計算になります。
しかも、いくら公平に採点しようとしても、出自も性格も異なる人たちが読んで「良く書けているかどうか」を、100点満点で厳密に採点することなんてできません。不公平と言われても過言ではありません。

これに比べ、マークシート方式は、最初から正答が確定しているのですから、出題ミスさえ気を付ければ、機械が自動的に採点してくれるのですから、コストも手間も不公平感もありません。
さらに今では、大学入試センター試験の受験結果を持って申請するだけで合否が決定する試験もあるのですから、大学にしてみれば、コストを格段に抑えて受験生を確保するには格好の方式なのです。

■怠惰な入試を行っている大学が学生の劣化を嘆くな
これで大学生の学力が低下している理由、そして学生がレポートを作成するのにインターネット情報(ウィキペディア等)をコピペしてしまう理由がお分かりになったと思います。

入試のコスト削減と手間を惜しんでいる。
少子高齢化の中、学力の低い学生を入学させてしまう。
レポートの執筆法を解説する授業の不存在。
大学教員が授業でのレポート課題の添削・返却を怠っている。
卒業論文を課さなくなった。

もちろん、これは私が経験から抱いた仮説でしかありません。本当のところは、壮大な社会調査でもしなければわからないかもしれません。しかし、大きく違ってはいないでしょう。

具体的にどうすればレポートを作成できるのかがわからない中で、苦肉の策として学生が「時間と手間を惜しんでしまう」のは、皮肉なことに、今の大学教員・職員の行動から学んでいるのかもしれません。
posted by まつもとはじめ at 04:28| 神奈川 | Comment(5) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月04日

大学の秋入学が導入されることについて

東京大学が学部の海外からの留学者向けの秋入学「PEAK」を導入します。そして留学生を対象に、今秋から学部生を受け入れることになったそうです。

読売の記事によると、合格者の3割が辞退したため、日本よりも欧米の大学の方が人気があると述べています。

「東大より欧米大」秋入学の海外学生、3割辞退
 東京大学で今月から始まる、初の学部レベルの海外学生向け秋入学コースで、合格者の3割が入学を辞退していたことがわかった。

 欧米の有力大に流れたという。国内では合格者の入学辞退が1%未満の東大も、秋入学では国際的な学生獲得競争にさらされることが浮き彫りとなった。

 東大が教養学部でスタートさせる秋入学コース「PEAK」では、英語による授業のみで卒業できる。出願要件は高校卒業までの12年のうち最低10年間、主に日本語以外で教育を受けていたこととされ、日本国籍でも受験可能。定員は30人前後としている。

 東大は昨年、約30か国に教職員を派遣して、新コースをPR。学費が事実上、免除となる奨学金も用意して、入念に準備してきた。今年1〜3月に実施した、書類と面接によるアドミッション・オフィス(AO)入試では出願者238人を集め、中国や韓国など14の国・地域から38人が合格。ただ、パキスタンやニュージーランドなどの11人が入学を辞退した。英オックスフォード大など欧米の有力大に進んだという。
(2012年10月3日16時54分 読売新聞)

この記事の論調としては出足からつまずいたという印象です。しかし、何事においても初年度から結果を出すのは難しいし、海外留学といえばオックスフォードやハーバードといった名のある大学を目指したくなるのは普通の反応です。
よほど東大に意中の教員がいるというならともかく、複数の大学に合格したら、学生にとって、最も価値がある、自慢しやすい大学を選ぶものです。だから今回は、初の取り組みなのだから、最初から結果を求めるべきではありません。


大学が秋入学になることの混乱

大学が全て秋入学になると、「春に高校を卒業して、秋まで何をするのか?」、「小学校から高校までが全部秋入学になったら大混乱だ」、「就職のタイミングとかはどうなるのか?」などなど、反発が起きるでしょうし、その結果、いろんなデメリットが生ずると思います。しかし、現実はさほど大きな問題とはなりません。
制度改正初年度か2年目くらいは混乱すると思いますが、3年も経てば安定すると思います。
こう言ってしまうとナンですが、消費税の導入・増税みたいなもので、最初は混乱するけれど、しだいにそれが普通になってしまうというあの感覚です。
ただし、それは初等教育から高等教育まで、全てを一度に変えた場合であって、春入学と秋入学が混在すると、遅かれ早かれ、半年間のタイムラグが問題になってしまいます。


カリキュラムの混乱を抑えるには教育機関一律の「秋入学」が必要

高校までは「春」、大学からは「秋」……というシステムを永続的に導入すると、無意味に混乱します。大学全てが「秋入学」とするのであれば、高校までの教育も全て秋入学・卒業としなければ、この半年間の無意味な時間が生じてしまいます。

私のいだく「理想的な教育」は、学びたいときにレベルに合った教育機会を得られることだと思っていますから、高校卒業と大学入学までに時間があけばあくほど、貴重な時間を無駄に過ごしてしまうことになります。だから、改革するのであれば、小学校と中学校、中学校と高校、高校と大学に時間をあけないことが前提です。つまり、初等教育から高等教育までの一貫した秋入学・卒業制度への改革です。

それでは今までのカリキュラムをはどうするのか。現行の2年生で学ぶべきことを1年生でやるのか……という疑問もあると思います。ただしそれは簡単で、今までのカリキュラムを、各学年のカリキュラムを前半と後半に分けて、半年間前倒しか先送りすればいいだけの話です。過渡期の児童・生徒にとっては「不公平だ」と言いたくなるかもしれませんが、よく考えてみれば、現行制度でも、4月生まれの子どもと3月生まれの子どもは、特に初等教育で知力・体力ともに不公平で、この格差は一生の格差につながる可能性もあるという研究結果もあります。もともと不公平なのですから、それが10月生まれと9月生まれの差になるだけだと私は見ています。
もう少し小学校において理想を追い求めるなら、「1学年」というものを前期・後期に分けるという考え方もありなのではないかと思います。実際に、慶應義塾幼稚舎(小学校)では、入試において早生まれの子どもに不利にならないような配慮がなされています。

したがって、導入時の混乱という問題だけで、秋入学・卒業制度が子どもの発達に大きな悪影響を及ぼすとは思えません。


もともと日本は秋入学・卒業だった

今年の1月、東大が秋入学の構想を発表した際に、我が国のような春入学・卒業は、国際的に見ればかなりイレギュラーであると知りました。それと同時に、かつて我が国も国際スタンダードに沿う形で秋入学・卒業だったのですが、明治から大正にかけて、改革されてしまったことを知りました。この改革の理由は、「秋入学だと夏の暑い時期に学年末試験や入試を行わねばならず合理的ではない」とか、「行政の会計年度と一致させた方が合理的」とか、そして「成年者の徴兵免除申請は4月に行うことが必要だったこと」などから春が一般的になったようです。
しかし、現代において、夏の暑い時期に学年末試験を行う学校は多いし、会計年度と教育機関を合わせる必要などないし、徴兵制が無い我が国において、別に春でなければならない合理的な理由はありません。


企業の従業員採用における問題は特になし

雇用の流動化の激しい昨今、企業への就職もまた、別に4月である必要はありません。
「新規学卒採用」と呼ばれる採用方式もさほど合理的ではありません。就職できずに留年してしまう人も多いことを鑑みれば、一度に採用する人数を操作して、4月採用と10月採用に分けてもいいと思います。
よく考えてみれば、4月にしか採用しない企業があったとして、年度の途中で退職してしまう人などの補充の必要性もあるのですから、年に3〜4回の採用機会があってもおかしくないですよね。


秋入学・卒業導入のメリットはひとえに「留学」

日本中の教育機関が、原則として全て秋入学・卒業に変わることについて、私は導入時の混乱を除外すれば、メリットの方が多いと思います。
この最大のメリットとは、海外留学の可能性拡大と、逆に留学生の受け入れ可能性の拡大です。
大学の運営面から考えれば、「不要な半年待ち」を生んでしまうよりも、高校を卒業・即留学の方が学力の低下や学習に対するモチベーションの低下も補えます。

留学がそんなにすごいのかという疑問を抱く人もあるかと思います。学びとは、英知との出会いです。
私はかつてカリフォルニアの公認会計士の家庭にホームステイして、地元の学校に通っていたことがあります。いわゆる中産階級の母子家庭で、何というか、アメリカの典型的な中流家庭を体験した経験は、私の人生にとって、とても有意義でした。アメリカ人のものの考え方などは、現地に行かないとわからないものです。
異文化と接すること、異文化に入ってみること、違う考え方の人と交流することは、脳を発達させる、極めて合理的な学習法であることは、留学を体験した人の多くが抱く経験だと思います。自らが留学すること、他国の留学生を受け入れることは、相互理解を深め、異なる言語を通して新しい知識を蓄積することができます。この可能性を広げるという意味では、秋入学・卒業は極めて合理的な改革です。
海外へ行きやすくするためにも、海外から来やすくするためにも、やはりスタンダードとされる秋入学・卒業制度を導入することは悪くないと思います。


秋入学・卒業制度はいわばコンピュータのOS

今までの春入学・卒業制度を一気に秋に変革する場合、それはものすごい反発もあると思います。
しかし、規格がバラバラの商品を開発してしまったために出遅れてしまう商品は、いずれ淘汰されることになります。また、標準的な規格に沿っているだけで、商品の持つ本来の良さがアピールできることもあります。
それはコンピュータでいえば、WindowsというOSに準拠しているだけで、世界中の多くのコンピュータとデータ交換ができるのです。もちろん、最近はWindowsとMacでも互換できますから、それぞれのユーザーがそれぞれのOSの良さを知ることができます。

大学教育は、国際的には学士・修士・博士という共通した国際標準の学位が得られるかどうかという点で、標準化されています。(もちろん例外はたくさんあります)
これが敢えて春入学でなければならないとする理由は無く、互換性の高い秋入学・卒業制度に変えるというのは、至極真っ当な判断だと思われます。


秋入学・卒業制度の準備は既に整っている

高校も単位制の学校が増えてきたし、大学に至ってはほとんどの大学がセメスター制なのですから、大きな混乱はありません。通信制大学の多くは春入学・秋入学併用制だったりもしているので、このような制度改革の準備は既に整っているといって過言ではありません。
ただ、我が国での秋入学・卒業制度導入は、コペルニクス的転回ともいえるため、拙速すぎる改革は大きな反発と混乱を生んでしまうような気もします。
せっかく秋入学・卒業のスタートが切られたのですから、私は段階的に、有識者の意見を聞いて、少なくとも数年間の議論を経た上で推し進めていくべきかと思っています。


参考
大学入学、なぜ春なの?(読売)
大学の秋入学に関する主な課題・論点(首相官邸)
東大の秋入学移行に反対する東大教員有志の会
posted by まつもとはじめ at 04:23| 神奈川 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

「頭の良い人」の定義

よく、学業成績の上位の人のことを「頭が良い」という表現をします。

ちょっと考えていただければわかると思いますが、「学校における成績が良いことと」と「頭が良い」ということは、それなりに相関するケースはあっても、現実には違うというケースはたくさんあります。

いちおう、文筆業の世界にいる者として言うならば、中学・高校の国語の成績と、プロの作家やライターとしてやっていける人との相関関係はあまりありません。国語が常にトップクラスで、国語だけなら大学入試で満点を取れるくらいの能力を持っていたとしても、それが「精力的に情報を集めて独創的な感覚でものを書く能力」を担保するものとは思えません。むしろ、文章力はそこそこで、多少は人真似でもいいから、自分の興味を持った分野に精力的に取材していくくらいの人がプロとして役に立つと思っています。

私は仕事がら、いろんな職業の、いろんな立場の人とお会いすることがありますが、その業界で、第一線で活躍している人とお話しをすると、何というかオーラのようなものを感じ、「ああ、この人を超えることは絶対に無理だな」という印象を持つ人と、「え?この人がそんなすごい人なの?大したことなさそう」と感ずる人がいます。
この「すごい人オーラ」は、学歴や資格といった、評価のしやすいバロメーターではありません。中卒であろうと、高卒であろうと、すごい人のオーラはじんじん感ずるし、逆にすごい学歴を持っているはずの人でも、意外に大したことないんじゃないかという印象を受けたことがあります。

よく言われることではありますが、中等教育までの「頭の良い人」とは、模範解答のある設問に対し、その模範解答を短時間で引き出してこられる人のことを言います。つまり、「記憶力の優れた人」イコール「頭の良い人」です。
しかし、高等教育以降は、模範解答のある設問なんてある方が珍しいくらいだと思います。

例えば、「誰が日本の総理大臣になれば良いですか?」という設問に、模範解答なんてありませんよね。同様に「安全に原子力発電を運用する方法を説明しなさい」とか、「面白い映画とはどんな映画か、説明せよ」など、難しいものが多いはずです。

こうした困難な判断を「学業成績の良い人が適切に判断できる」とすること自体がかなり無茶なのに、我が国の官僚制度ではその学業成績の良い人が国家公務員試験に合格して国を動かしていくという不思議な状況にあります。
また、その国家公務員の中でも、偏差値の高い大学(東大・京大など)の出身者が尊ばれる傾向があって、独創的な判断よりも、無難な判断をできる人が昇進しやすいとされています。

しかし、民間企業では学歴はさほど重要ではなく、むしろ研ぎ澄まされた感覚で商品を開発できる人、少し強引でも有利な契約をとってこられる人、法律や機制の間をぬって面白いことをしてしまう人の方が尊ばれます。

そんな理由から、私はそもそも「学歴」というものを信用していません。信用していないからこそ、学歴が無いから悩んでいるという人には著書で「実はその学歴をいかに楽をして取得すべきものなのか」を説明しているし、「こんなくだらないことで悩むくらいなら、学位でも学歴でも取得してしまえば解決する」と「我々が思っているほど高学歴の人は優秀じゃない」ことも述べています。

東大でも早稲田でも慶應でも、一流とされる大学は、「卒業生(この場合は中退も含む)に優秀な人がいた」だけであって、現に学生をしている人、卒業生が優秀である証左にはなりません。ならない以上、学歴を信仰するような考え方は過ちだということになります。

このあたりの私の意見に少しも同意できない人は、きっと記憶力万能主義とでもいうのでしょうか。学歴というものを信奉し過ぎて、人物評価を見誤ってしまうのではないかと思います。
posted by まつもとはじめ at 02:02| 神奈川 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする