2016年06月03日

尾木ママ「男児置き去り事件で失言!」について

私は尾木先生と一度、「アベマTV」という番組でご一緒したことがあります。私ごときが本件について述べるのもどうかと思うのですが、教育ジャーナリストと名乗っている以上、意見を述べさせていただきます。

今回、北海道で起きた、男児置き去り事件について、尾木先生がブログで「置き去りそのものが真実なのか」と述べたことについて、ネットで批判を受け、サイゾーが記事にしています。

どうもおかしい!?自衛隊の一メートル間隔のローラー作戦でも見つからない!?
なんて
はっきりいってあり得ない
これは
置き去りそのものが
真実なのか
失礼ながら
疑いたくなってしまいます…
それほど
あり得ないことだと思います
日本の警察も自衛隊の災害救助隊も
極めてレベル高いです
あれば探せないはずないのではないでしょうか!?
それとも
科学では解明出来ない
「神隠し」
でしょうか!?
尾木ママ
本気で動揺しそうです…
皆さんは
どうお考えですか?


尾木ママ、北海道・男児置き去り事件で失言! 父親疑うブログが「無責任すぎる」と炎上(サイゾーウーマン)
 北海道七飯町の男児置き去り行方不明事件をめぐって、尾木ママこと尾木直樹氏のブログが物議を醸している。児童は3日朝に無事発見されたが、同日未明に更新されたブログで、尾木氏は「置き去りそのものが真実なのか」などとつづっており、発見の第一報とともにネット上では批判の声が噴出してしまった。
 男児は先月28日、父親からのしつけとして、七飯町の林道で車から降ろされた。ところが約5分後に父親が戻ると姿が見えなくなっており、そのまま行方不明に。児童は林道から約5キロ離れた陸上自衛隊駒ケ岳演習場内で保護され、軽い擦過傷や脱水症状があるものの、命に別状はなかったという。
 この期間に行われていた捜索ついて、尾木氏は「どうもおかしい!?自衛隊の一メートル間隔のローラー作戦でも見つからない!?」とのタイトルで昨夜ブログを更新。「はっきりいってあり得ない これは置き去りそのものが真実なのか失礼ながら疑いたくなってしまいます…」「日本の警察も自衛隊の災害救助隊も極めてレベル高いです あれば探せないはずないのではないでしょうか!?」と、暗に、父親の説明に嘘があるのではないか、父親が事件に関わっているのではないかと読める提言をしていた。
 この書き込みについて、ネット上では「不謹慎ながら同意見です」など、少なからず尾木氏に賛同する声もあったが、その後は「憶測で発言するのは問題では」「影響力のある人間が発言すべきことではない」「無責任すぎる」と批判が噴出。なかには「何でもかんでも首つっこみすぎ」「人前でしゃべらせるな」と、尾木氏自身に対するバッシングとも取れる書き込みまで散見される。
「確かに、男児の行方不明期間は7日目となっており、それでも発見されないことに、ネット上でも疑問の声が上がっていました。しかし、それにしても今回の書き込みは配慮に欠けていた。もともと歯に衣着せぬ発言がウリの尾木ママでしたが、今回ばかりは賛同よりも批判の声が圧倒的です」(芸能ライター)
 尾木氏の発言はたびたび炎上を招くことがあり、以前には芸能界に飛び火したことも。
「特に話題になっていたのが、NEWS・手越祐也とのツーショット写真が流出したAKB48・柏木由紀を痛烈に批判したことです。柏木本人、そして大手メディアも圧力を恐れてこの件について一切触れないことに、尾木ママは『自分で起こしたトラブル ファンへの裏切り行為に対しては 自分のアイドル生命かけてでも説明するのが当然でしょう!』と釈明を要望し、一部から称賛を得ていました。一方、狩野英孝の三股騒動でクローズアップされた加藤紗里については、『素直、お嬢様、不器用、素人さん、計算高くない、そんないい感じの人』と擁護を展開したことについては、ネット上で『なんで擁護するの?』『弱みを握られたの?』などと波紋が広がりました」(同)
 タブーを物ともしない尾木氏だが、今回の発言ばかりは失敗だったと言わざるを得ないようだ


私はこの件で、特にマスコミからはコメントを求められてはおらず、ブログ記事にもしていませんでした。
ですので、男児が無事に保護された後、全て種明かしされた上で、尾木先生の発言を批判する立場ではありません。

確かに尾木先生のコメントは、ギリギリの線を突いて、「親が故意に虐待死させようとしたのではないか」と思わせるような記事に見えます。
ただ、私が不思議でならないのが、尾木先生の文章が、何でこんなに稚拙なのかということです。
アメブロで自分のブログを運営している芸能人は、短文に改行を重ねて、無駄にスクロールさせる文章を書くものですが、尾木先生がこんな文章を書くのかと思うと、それはそれでビックリです。
ひょっとしたら、アメブロ用のライターが、尾木先生に成り代わって書いているのではないか。電話で簡単にやり取りしたことを、いいかげんに書いているのではないかと思うほどです。

サイゾーの記事が、尾木先生の「言い過ぎ」を指摘・批判するのはよくわかります。
100の虐待事件があって、そのうち99が本当に虐待であったとしても、1つの冤罪が含まれているかもしれないことは、報道の側にいればわきまえなければならないことです。だから、警察発表があるまでは、「親が殺してどこかに埋めたんじゃないか」と思っていても、口に出してはいけないのです。

私がテレ朝のコメンテーターに呼ばれた時、資料や当日の新聞を渡され、「この件に関しては十分な取材が行われているので、言及してもらっても構いません」、「この件は取材が十分ではないので、『このように思われても仕方がない』という、あいまいな言い回しにして欲しい」と指示されました。
だからきっと、尾木先生も「親は子どもを虐待したと思われても仕方がない」と述べたつもりでいたかと思うのですが、ある意味、「尾木直樹」いうブランド力が「証拠もないのに言い切ってしまった」ことになってしまったのかもしれません。
だとすれば、アメブロにありがちな、稚拙な文章の書き方ではなく、こんな風に書くべきではなかったのかと思うのです。

まつママ的コメント案
「警察も自衛隊もこれだけ捜索して、子どもが見つからないというのは、本当に不思議としか言いようがありません。私は事情を知っている訳でもないし、ここまでのニュースで断言することはできないのだけれど、こういう事態になると、両親がもっと何かを隠しているのかとか、もっと大きな事件なのではないかと勘繰りたくもなります。そんなことを考えたくなくても、そう思っちゃうじゃないの。でも、とにかく無事に帰ってくることを祈りたいと思います。ただ、一言だけ、親御さんには『絶対に子どもから目を話したらダメ』と言いたい。大切な子どもさんなんだから、どんなことをしても目を離しちゃダメなのよ。」

いつもの尾木ママの口調で、ここまで書いてあれば、言いたいことは伝わるはずと思います。

あと、アメブロのあの改行の多い記事の書き方は、何か軽い印象に見られるので、多用はひかえた方が良いと思います。
posted by まつもとはじめ at 21:47| 神奈川 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

幸せな進学とは何か

私が小学校の頃から納得できないというか、ずっと疑問に思っていたことがあります。

「正しい進学とは何か」

私が小学校5年生だった時、同級生の一部の人たちが地元の中学受験予備校に通っていることに気づき、初めて「中学校というところは、自ら望み、金と学力があれば地元の公立中学校へ進学しなくてもいい」ことを知りました。

そんな選択肢があるなんてこと、全く知りませんでしたから、がぜん興味を持ちました。

しかし、話を聞けば聞くほど頭にハテナマークが灯ります。

「ナントカ大学附属中学に進学すれば、ナントカ大学にエスカレーターで入学できる」
「ホニャララ高校へ進学すれば、中高一貫教育であの有名国立大学に入学できる」
「これからは競争社会だから、少しでも早く受験準備を整えていた方がいい」

こういう話を聞いて、私はすごく違和感を持ちました。

今、がんばってどこかの大学附属に入学したとする。そしてあまり勉強しなくとも、その大学に入学できたとする。そうしたら、大学生になってから困らないか?
今、がんばってどこかの有名進学校へ入学したとする。すると、自然と優秀になって、有名大学へ入れるようになるのか?
競争社会なのはわかるけど、早く準備を整えたから優秀になるって、ちょっとおかしくないか?

以前、「お受験は害悪」の記事でも述べましたが、私たちは他人に強いられる勉強は嫌なものだし、興味の無い分野について、点数が取れるというだけで努力をしようとは思いません。それでも進学校へ通っていれば、周囲ががんばって勉強するのを見て、落ちこぼれる恐怖感からそれなりの努力はするかもしれないけれど、面白いと思わないのに勉強に対する情熱なんてものは湧きませんよね。

ここで私の話。
私はいちおう法学部を卒業しています。大学院で、いちおう民事訴訟法を専攻しました。
わざわざ「いちおう」と述べているのは、好きで入学した学部だし、好きで選んだ専攻なのだけど、自信を持って研究をしたとか、大論文を書けるほどのスキルが得られたという訳ではないからです。
だけど、自分の大好きな分野を勉強したときは、試験に出るか出ないかに関わらず、とにかく全部勉強したし、穴があくほどテキストを読んだりもした。
大学院では別の教授から「松本君はあまり意味のないことばかりやっている」と批判されたことはあったのだけれど、指導教授からは「まぁ、せっかく入学したんだから、好きなことをやりたまえ」と言われ、民事訴訟法の論文をそっちのけで学校教育法や電気通信事業法を調べました。

その「無意味な研究」は、確かにほとんどが無意味に浪費されました。
2年で修了できる大学院を3年かけてしまったし、良い就職をした訳でもない。

だけど、私は自信を持って言えます。

「自分がやりたい勉強をした」……と。

だけど、無理強いされて、義務感だけで大学を出た人。とりあえず、修士を持っていなければ偉ぶれないからというだけで大学院へ進学した人。安定した職にありつくには大学教授がいいと思い、無理して博士を取った人もいるでしょう。
私の知っている人の中には、なんとか大学教授になったはいいけれど、その後、ろくに業績を出せないまま、いろんな人に軽蔑されている教員もいます。自分の能力が低いことを批判されたくないがために、必死になってライバルを叩くなんて人もいる。

私はふと思うのです。

本来、学問というのは、「いろんな分野のいろんな知識や考え方を収集して、その知識や考え方をもとに自分の考えを発表すること」ではないか。
この一連の作業を行うことができるのは、学校である必要はありません。自分の家、職場、図書館等々、どんな所属でも可能です。
ただし、大学という教育施設・研究施設が、高度に合理化されたシステムや制度を有しているため、研究の礎を築きたい人は大学を目指し、より研究を深めたい人は大学院を目指し、研究し続けることが可能な職に就きたい人が研究者(大学教員)を目指すのです。

すると、「ちょっと専門的な知識を持っていて、この知識や経歴を使って安定して食べていきたい人」、つまり「なんちゃって研究者」みたいな人は、本来的には大学へ来るべきではありません。そんな人が大学にいるだめに、研究をしたくしてしたくてたまらない優秀な人材がポストを得られないのです。

そこで私は問いたい。
大学で教員をされているみなさん、あなたは本当に研究がしたいのですか。
それとも、実は今までに投資した時間やお金を取り戻すべく、安定した職にありつきたいだけなのではないですか。


私は思うのです。
がんばって勉強すれば、大学院へ進学して、大学教授になれる。……なんて幻想を本当に信じている人、そして大学教授になった瞬間、研究することを忘れ、大学で権力を持つことに終始し、権威を振りかざして学生を従わせ、自分よりも優秀な研究者(ライバル)の粗を探すことに終始することになってしまうのではないでしょうか。

私の知っている限り、「がんばって勉強したぞ」と自覚・自慢している人に、優秀な研究者はいません。楽しい勉強を続けるために「がんばって金を貯めたぞ」という人はともかく、がんばって勉強したと自覚できてしまう勉強は、ほとんど身にならないはずです。
特に、「一生のうちで最も勉強したのは入試の時だった」と自覚している人は、もう学問が何たるかを語る資格が無いのではないか。

週刊誌に取材されるたびに、「最も良い進学とは何か?」と聞かれます。

期待される答えは、「文系なら国立大学の法学部へ行けば、公務員試験にも対応できるし、一般企業でもつぶしがきく」、「理系なら工学部を卒業して大学院へ行けば大手のメーカーなとに就職できる」……なんてものでしょう。

しかし、私はいつも「自分の適性に合った分野について、学びたいときに学べる学校が良い」と回答しています。

だってそうじゃないですか。
就職したいのなら、就職に特化した専門学校へ行けばいいのに、わざわざ大学で好きでも無い勉強をやる必要なんて無いでしょう?

世間体とか、一般論とかに踊らされて、「とりあえず四年制大学へ行けば安泰」とか、他人の目を気にして進学することほど、金の無駄遣いはないでしょう。

就職したいのに大学へ行って、就職できないことほど、バカらしいことはないでしょう?
就職できたとしても、最初から底辺社員要因となることがわかってて雇用されるって、きつくないですか?

「幸せな進学」……私の永遠のテーマとなりそうです。
posted by まつもとはじめ at 03:35| 神奈川 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月22日

いわゆる「お受験」は害悪


あまり優秀でない子どもに対し、熱心に教育したら、めきめき実力をつけていった。
その子は有数の私立の小・中学校に進学し、その後、あの有名な大学に合格した。
子どもは大学を優秀な成績で卒業し、あの有名な企業に就職し、幸せな人生を歩んだ。

   ↑↑↑
……これは、いわゆる「お受験」と呼ばれる、子どもの進学におけるサクセスストーリーです。
一般に「受験」と書かず、「お受験」と表記するのは、知識も判断能力も乏しい子ども自身の選択ではなく、親が主導して子どもの進む道を決定することからくるものと思われます。よって、高校や大学受験とは区別して、「お受験」とは小学校・中学校受験を指すものであると、私は勝手に定義します。

さて、こんな理想的なストーリーを得るために、お受験というものが必要なのでしょうか。
……というか、お受験の延長線上にある大学へ進学することで、本当に幸せな人生が送れるのでしょうか。
正直なところ、私は疑問です。

医者になるためには医学部へ行かなければなりません。だから我が子を医者にしようと思ったら、できることなら有名国立大、そうでないなら有名な私立の医学部へ進学させたいと思うのが親心。
国家公務員、特にキャリア官僚にとっては、我が子を国家公務員1種(総合職)に合格することはもちろん、合格してからの身のふりかたを考えれば、やはり東大か京大は出しておきたいと思うのも親心。

口では「人はみな平等」と言っておきながら、「やっぱり出た大学が立派じゃないと通用しないよなァ……」なんて考え、周辺の親が対策するのを見て、つい小学校の受験案内を見たり、中学受験専門の予備校を探したりしてしまいます。他人は低い位置での平等でも、自分や自分の家族は高い位置での不平等(勝ち組入り)を望むものですよね。その気持ち、わかります。

だけど、そのために、学業の資質の無い子どもに、過度な学習を強いて、その結果、どこかの有名私立小学校・中学校に合格したとして、その後の人生は本当に理想的なのでしょうか。何よりも、本人にとって幸せなのでしょうか。

私は「理想的な教育とは、個々人の向き不向き(得手不得手)をふまえ、レベルに応じた学習機会が与えられること」だと思っています。

スポーツを例に挙げてみたいと思います。
運動が苦手な子どもに、優れたスポーツトレーナーが付いたとします。
スポーツトレーナーがつくことで、合理的に基礎体力をつける方法を教わったり、フォームを調整することによって、子どもの身体能力は一定の能力まで向上させることができます。しかし、その後は本人の資質なり素質なりがものをいいます。どんなにスパルタ教育をしても、嫌いなことを好きにはなれません。まして、スポーツを職業にできる人などは、ごくわずかですから、子どものスポーツトレーニングは、あくまでも趣味程度にしておくべきで、プロを目指した訓練は、潜在的な能力を見出された子どものみにすべきであります。
このようなスポーツの事例を出すと、我々は経験則的に理解できるため、一般的には「素質・資質の無い人に無理して訓練しても一定以上の効果は望めない」という理解で正しいと思います。

しかし、これが「勉強」「学習」となると、不思議なもので、どんなに資質のない子どもでも、「やればできる」とばかりに、スパルタ的に教育を強いる教育方針があります。
とにかく試験問題で一定の得点をクリアすれば、または親子面接でマニュアル通りの対応ができれば、そして何とか総合的に一定の得点をあげて入学を許可されれば、後はその学校が有名大学まで導いてくれるはずだというものです。
この入学までの道のりをクリアするための準備が、いわゆる「お受験」と呼ばれるものだと思います。

さて、この「お受験」ですが、これが理想的な教育なのか、私にとっては大いに疑問です。

お受験をして進学した末の大学選び
私の小学生時代の同級生数人が、有名な私立中学に進学しました。その後、20歳の時にクラス会が行われ、私立中学進学組の彼らが実際に入学した大学を聞いて驚きました。
具体的な大学名を出すとナンですが、偏差値的には私の卒業した神奈川大学(法学部で55くらい)よりも下です。
あれだけ小学校時代から予備校に通い、受験対策を行ってきたのに、塾や予備校に行ったこともない私よりも偏差値が下の大学です。
「有名な大学へ行くために、早期に高度な教育を行って将来に備える」というつもりが、なんとか大学へ行ったものの、特別すごくなかった。
これって何のためのお受験だったのでしょうか。

無理して大学附属高へ入学しても疲弊
私の親戚にも一人、大学進学を夢見て、私立の中学、大学附属の高校に進学していながら、結局その大学には進学しなかった人がいます。彼は高校までのつらい勉強で疲弊してしまったため、18歳となり、自己決定権を主張できるようになってからは、親が何といおうと、大学へは進学しなかったのです。
「何はおいても大学へ行かせたい」と思うがあまり、必死に尻を叩いて大学附属に進学させたものの、結局は勉強嫌いになってしまう。したくもない勉強を強いられるつらさを知ってしまった人は、社会人が大学へ行きやすくなったとしても、二度と学問には関わりたくないと思ってしまうのだと思います。

有名私立小学校へ入学しても
私が大学時代にアルバイトしていた横浜の補習塾では、有名な私立の小学校に通う子ども(Y君)が通っていました。別にうちの塾の教育が良かったのではなく、もともとY君は成績優秀だったため、「優秀なY君が通っている」という評判から、その同じ小学校の児童数人が通塾していました。
Y君はものすごく優秀で頭の回転も早かったのですが、その同級生らは明らかに学業に対する適性は無いように見えました。同級生のうちのひとり、W君の保護者と面談すると、子どもの成績が伸び悩んでいることに対し、母親は教育ノイローゼとでも言わんばかりの状態に見えました。
面談の中で、「学校よりも先行して学習させたい」と、かなり無茶な親の意向を告げられたことがあります。基礎的なことがわかっていないため、「そりゃいくらなんでも無理」と回答したら、塾をやめてしまいました。
私の目には、教育費に多大な出費をして有名私立小学校に合格させたこと、そして親戚や近所の評判の手前、もう後には引けなくなったという危機感を抱いているようにも見えました。「W君はあの有名小学校に行ったのに、中学は公立だった」なんて言われては、沽券にかかわるというところでしょうか。だからといって、九九ができない子どもに3桁の掛け算は教えられませんから、先行学習は無理という、我が塾の判断は間違っていなかったと思います。

有名大学合格歴が人生の拠り所
一方で、なんとかお受験が成功し、私立中学・私立高校の進学をして、予備校にも通って、某有名私立大学に合格した知人がいます。彼はその合格の事実を、まるで勲章のようにして生涯の自慢としています。大学を卒業してまる20年が経とうとしているのに、彼を知る知人から「あいつはいまだに大学入試の武勇伝を語っている」と聞きました。
しかし、残念ながら、彼は仕事では成功していません。機会があって、彼の話を聞くたびに、彼や彼の家族がの投じた学習時間と費用は何だったのかと思ってしまいます。少なくとも現時点では、高学歴であることを自慢をするための巨額の投資だったということになります。

こうして見てみると、「お受験」というのは、実にリスキーな投資であることがわかります。
高額な教育費を捻出できる、裕福な家庭の子どもであったとしても、幼少期の遊びたい盛りの機会損失は計り知れません。これが一般の家庭で、少ない収入の中から、有名大学への進学を目指して教育費を捻出するというのは、負担も大きければその分期待も大きいものです。人並みの成績しか取れない子どもが無理に勉強させられたらどうなるでしょうか。

有名な私立小中高校に合格しても、その先、有名大学へ行けるとは限らない。
有名大学へ行けたとしても、その後、やり甲斐のある職・業務に就けるという保障も無い。


私は義務教育修了時の、全ての15歳が、中学3年の全ての科目において5段階評価で2以上の学力を身につけている必要はあると思います。しかし、資質もないのにそれ以上の勉強を強いられるというのは、良くないと考えます。

その一方で、努力らしい努力をせず、勉強が好きだから軽々と勉強できてしまうなんていう児童は、それこそ奨学金を給付してでも、飛び級をさせてでも有名大学へ続く道を歩ませるべきだと思っています。
そして無理な努力をしなければ大学へ行けないような人は、早めに適性を見定めて、苦痛の伴う勉強から解き放ってあげるべきではないかと思うのです。
食えるかどうかは別にして、芸術や芸能に適性を見出す人もいるでしょう。ナンバー1にはなれなくても、ナンバー2で手腕を発揮する人もいるでしょう。既存の学問ではカバーされていない分野に興味を持って、とんでもない能力を身につける人もいるでしょう。

苦痛とインセンティブ
さて、私は、大して優秀ではない生徒(学業に対する資質のない人)が、苦痛の伴う勉強をして、有名大学へ行くのは反対です。
人は苦痛を伴えば伴うほど、インセンティブを求めます。

勉強の好きな人は、本を読んで知識が頭に入ってきて、何かがわかることが快楽に感じます。つまり、知識の獲得そのものがインセンティブです。

しかし、勉強の嫌いな人は、その苦痛を伴う代償として、有名な大学へ入学できること、偏差値や点数を獲得できることがインセンティブであり、その結果、自分が入学した大学よりも下位とされる大学の学生をバカにしたり、17〜8歳の時に記録した模擬試験の結果を生涯の自慢としてしまいます。

学歴と地位や収入は直結しない
旧司法試験の時代。法律学が好きで好きで仕方のなかった私の知人は、勉強らしい勉強をしなくても、基本書を2〜3回読むだけで理解できるという才能を持っていました。国立大学へ進学する受験スキルは無く、彼が行った大学は中堅私立でしたが、ちょっとした受験テクニックを勉強しただけで、弱冠20歳で司法試験に最終合格してしまいました。もしこの知人の親が、「医者を目指せ」と言っていたらどうなっていたでしょうか。まぁ、医師としても成功したかもしれませんが、少なくとも彼は大学名にこだわらず、自分の好きなことを勉強したら軽々と司法試験に受かってしまったという訳です。彼は裁判官になりましたが、現在は退官して弁護士として活躍しています。

また別の知人は、何の取り柄もないと思われた男でしたが、交際していた女性の使っていた化粧品に興味を持って、小さな化粧品会社を立ち上げたところ、わずか数年のうちに年商1億円の会社に成長してしまいました。まだまだ伸びそうです。個人年収を聞いたら、具体的な金額は教えてくれませんでしたが、「大学の准教授の平均よりも多い」とのことです。高卒が大学准教授以上ですか。なるほど(^^;)。
彼は高卒ですが、私が放送大学で学んでいるのを見て、面白そうだからという理由で放送大学に入学しました。彼は5年かかってやっと40単位を修得した程度ですが、「放送大学の勉強は面白い」と言っています。

こうして見てみると、能力を有している人は、別に大学で学ばなくても優秀だし、あまり勉強しなくても目指す大学へは軽々と行けてしまう。むしろ、大学を目指すよりも、その先のことを考えているのだから、大学の名前なんかどうでもよくて、自分に都合の良い勉強だけして、どんどん先に行ってしまうものなのです。


こうして考えてみると、私の拙い人生経験による経験則ではありますが、「お受験」は人間の生育過程において、害悪しか生まないのではないかと思ってしまいます。
もちろん、お受験を経ることによって、人生の早い段階で優秀な人に接する機会はあるというメリットはあるかもしれません。東大へ行った人が「東大人脈」なんて自慢するくらいですから。
だけど、受験勉強にばかりウェイトを置いて、幼少期から点数と他人との比較(偏差値)に気を取られるあまり、興味を持つかもしれないことに出会えないというのは不幸なのではないかと思うのです。

学問に対する適性が見出せないのに、「やればできる」、「努力すれば優秀になれる」と思うあまり、無理に勉強させるというのは、いかがなものかと考えています。
すると、やはり「お受験」に始まる自分の適性に合わない進学行動は、害悪でしかないのではと、私は考えてしまいます。

何度も言いますが、この記事は、あくまで私の経験則に基づく仮説であります。
議論はのぞむところですが、具体的なデータを収集して出した結論ではありませんので、その旨、ご了承ください。
posted by まつもとはじめ at 02:18| 神奈川 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

いじめ発覚で担任教師の評価を下げるのは間違い

ワタミ会長の渡邉美樹氏が、過激な発言をしています。

「いじめが起きたクラスの担任は事前に芽を摘み取ることができなかったのだから減給すべき」と述べました。
週刊ポストセブンは、インタビュー記事を過激に編集することがあるため、この渡邉氏の言葉を額面通り捉えることができないが、この言葉は重い。
もともと「いじめ」などというものは、発覚しにくいもので、教師が感じ取れるくらいのいじめなどは、逆に言えば軽い。教師にも得手不得手はあり、いじめの発見のうまい教師もいれば、苦手な教師もいる。巧妙ないじめは「いじめられているふりをして相手をいじめる」なんてものもある。
学校裏サイトなどに悪口を書くなど、匿名掲示板に誹謗・中傷を行うなんて陰湿ないじめは、いじめそのものが発覚しても犯人特定が困難だから、いつまで経っても解決ができない。

だいたい公務員の昇進システム自体、個性ある教員を認めにくい(=上の言うことを聞けない人は左遷)上、ミスを認めること自体が悪という社会で、ことなかれ主義が基本です。ミスがあっても隠蔽できる限りは「いじめは確認できなかった」、「いじめと自殺に因果関係は無い」と言い続けなければならない、特別権力関係といってもいいくらいの縦社会だと思うのです。

人は生きて生活している以上、何らかのストレスを感じ、そのストレスを発散するためにいろんな行動を模索します。大人であればカラオケ、スポーツ、飲食、異性との付き合いなど、いろんな発散方法がありますが、子どもはお金がありません。日々の遊びや交遊関係などでストレスを発散することができる子どももいるでしょう。しかし、金も無く、親の無理解、友人もいないなんて子どもは、結局、自分よりも弱い立場の人間を見つけ、発覚しにくい環境の中で暴力を振るったり嫌がらせをしたりして、ストレスを発散するようになります。
大人の社会で起こっていることは、形を変えて子どもの社会にも反映されるのは誰もが知っているところでしょう。

すると、いじめを防ぐための手だては何が必要なのか。
それは渡邉氏も述べている「ディスクロージャー」です。ただし、そのディスクロージャーは、経営内容・経営実体などではなく、いじめの存否の公表です。これは別に外部に公表するってことじゃなくて、少なくとも教室内で、誰がどんな理由で誰をどういじめていて、その行為の何が問題で、それは今後どうすべきなのか。この行為に対して、教師がどう対応するのかを教室内で共有すべきことだと思うのです。

この本は、まさに教師にいじめを把握させて、子どもを守るために作られた傑作だと思っています。
   ↓
いじめ撃退マニュアル―だれも書かなかった「学校交渉法」 [単行本] / 小寺 やす子 (著); 野口 よしみ (イラスト); 情報センター出版局 (刊)

いじめが起こったら教師に罰を与えるなんていうのは、愚の骨頂だと思います。
「いじめを放置した」、「発覚・情報共有を遅らせた」という教師こそ問題なのですから、いじめの芽を摘み取れなかったら罰を受ける制度など、隠蔽が横行するだけのような気がします。

ワタミ会長 いじめ発覚なら担任教師の給料下げるべきと提案
 大津いじめ自殺事件で見えた教育システムの荒廃は、学校だけでなく、この国全体を蝕むものだ。今こそ硬直化した戦後60年の教育システムを変えなくてはならない、と指摘するのは神奈川県の教育委員を9年務め、郁文館夢学園の理事長でもあるワタミ会長の渡邉美樹氏である。
 * * *
 この問題を解決するには、教師には成果主義、学校には競争原理を持ち込むしかない。
 極端に言えば、例えばいじめが起きたクラスの担任教師は給与を下げる。いじめにいたるまでには芽の段階があるのだから、事前に芽を摘み取っておくべきで、それができなかったのは教師の能力が足りなかったか、やる気が足りなかったかだ。
 だから教師の評価をきっちり行なう。私が理事長を務める郁文館夢学園では教師の「360度評価」というものを実践している。生徒や親からの詳細なアンケートの結果、さらには校務分掌・教科・学年毎に上司、部下からの申告という具合に、総合的に評価する。評価がよければ、当然給与は増える。
 子供に教師を評価させるというと、「教師が子供に迎合するようになる」と必ず言われるが、そんなことはない。
 郁文館中学・高校では校長、教頭が毎日、教室を巡回して教師の授業をチェックするが、教師の上司である彼らの評価は、生徒たちのアンケート結果とほぼ一致する。子供は意外とよく見ているものなのだ。
 教師を評価し、給与に反映させるなら、相応のトレーニングが必要だ。
 今の仕組みでは大学を出たばかりの22歳の若者がいきなり「先生」と呼ばれる立場になり、教室の中では“王様”として振る舞うことができる。批判する人がいないから、成長しなくなる。それを改善するには、インターン期間を設けたり、研修を行なったりすることで、教師としての資質を見極めながら、同時にスキルアップもできる仕組みが必要だ。
 学校も同じである。教育方針、私立であれば経営実態のディスクロージャー(公表)を進め、公立と私立の間で自由競争を起こすためのバウチャー制度を導入するなどし、生徒や親が学校を本当に自由に選べるようになれば、良い学校は生徒が集まり、そうでないところは淘汰される。それが学校に対する評価である。
 なぜ学校を競わせたほうがいいかというと、裏には親の愛があるからだ。親は本当に子供のためを思うなら、「この子の能力を引き出してくれる学校はどこか」を考え、必死で探すはずだ。特に中学校を選ぶのは親なので、学校は親に選ばれるように競えばいい。
 親が良い学校かどうかを判断するために、学校は教師の評価を公表する。もちろん親の側にも偏差値重視の価値観を正してもらう必要はあるが、親も子供が本当にかわいいなら、優しくてゆるいだけの学校より、厳しく育ててくれる学校に入れるはずだ。
※SAPIO2012年8月22・29日号
posted by まつもとはじめ at 23:23| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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