2014年01月25日

大学・大学院で学ぶべき作法

いちおう大学院に在学していたことがある者として、または社会人でも大学院へ行くことで研究者の礎を築くことができるという本を編纂した者として、大学院で行われるべき教育がどうあるべきかを書き記しておこうと思います。

1.大学の「学部」は学習の作法、「大学院」は発想の具現化の作法

一口に「大学」といってもカーネギー分類による分類もあれば、大学院には修士課程・博士課程もあるし、専門職大学院という分類もあります。日本においては旧帝国大学か否かという分類、予備校が作り出した偏差値やランキングなどもあるので、同じ学士・修士・博士であっても、その大学によって様々な差があります。

私が長きに渡って、大学の「学部」と「大学院」を見てきたり、または大学評価・学位授与機構の要求する「学修成果」と一般的な大学の「卒業論文」などを比較してみると、学部卒に要求されるのは先行研究をまとめる能力であり、修士に要求されるのはその能力に加え、自ら仮説を立てて事象を検証・論証する能力であるといえると思います。そして博士に要求れるのは修士の能力をさらに拡充させたものといえると思います。
もちろん、一般的な大学では卒業論文を必須としなくなっているところも多いし、修士といっても外国の論文を翻訳してもっともらしくまとめただけのものもあって、そのレベルが一定している訳ではないと思います。

卒業論文(学部卒相当)のあり方
A教授はこういう論文でこう述べていて、B教授はあの論文でああ述べていて、C氏はその著書でそう述べている。私はC氏の述べていることが妥当であると思われる。

修士論文(大学院修了相当)のあり方
A教授はこういう論文でこう述べていて、B教授はあの論文でああ述べていて、C氏はその著書でそう述べている。基本的には私はC氏の述べていることが妥当であると思うが、D説もあるのではないかと考えて検討した。なぜならC説ではこういう部分が足りずにA説が妥当になるし、ああいう部分も説明しきれていない点はB説が妥当であるからである。

ただ、共通していえること、担保しているはずのものは、学士は少なくとも学術論文を読み解く能力、それをまとめる能力があるはずで、修士はそれなりに新しい発想・視点で疑問を抱いて調査して文章としてまとめる能力があるはずです。

まぁ、私の知っている例では、外国の論文をそのまま翻訳すればバレないだろうと考え、剽窃した博士論文で大学教授をやっている人もいますが、まぁ、そういうインチキ君を除き、本当に自分で作成した論文を持っている人は、相応の能力を持っていなければなりません。

だから私は「学部」は学習の作法を学ぶところであり、「大学院」は発想を具現化する作法を学ぶところだと思っています。


2.「善管注意義務」は誤った概念?(私の経験から)

私が在籍していた民事訴訟法の研究室でのやり取りのお話しを紹介します。もう20年くらい前の話です。ある日、私は指導教授と「善管注意義務」についての話をしていました。

法学部を卒業した人なら聞いたことがあると思いますが、善管注意義務とは、善良な管理者の注意義務の略です。まぁ、動産でも不動産でも、きちんと管理する義務を負っている人は、盗難や滅失などに発展しないよう、相応の注意義務を持つぞという話です。いろんな場合に対応できるように抽象的な表現になっていますが、まぁ、「何かを管理する職業(カネを貰っている)の人は、宝石なら頑丈な金庫に保管するとか、不動産なら防火設備を整えておくとか、インターネットのサーバー運営会社ならセキュリティソフトとかバックアップをきちんとしておくなどがあります。

この「善管注意義務」に対する言葉は、「自己のためにするのと同一の注意、固有財産におけるのと同一の注意義務」と呼ばれます。
空港などで他人から「この荷物を見ててくれ」とお願いされて、自分のそばに置いておいたところ、ひったくりに盗られてしまった場合などは有償で請け負った訳じゃないし、親切心で見張っていただけなのに弁償しろと言われるのはかわいそうだから、放り出しておいたのではなくて自分の荷物と同じような管理の仕方だったのなら、相応の責任を免除・軽減してやるべきだろうという概念です。

この概念について、いちおう、理屈としては理解できるのですが、私は学部生の頃から「何かおかしい」と思っていたのです。
「自己のためにするのと同一の注意義務」より「善管注意義務」の方が強いとする、この概念に、私はひっかかってしまうのです。

私は3歳くらいから高校生まで、13年ほど県営の賃貸住宅に住んでいました。
この県営の賃貸住宅のそばには、同じ工法で建てられた分譲住宅もありましたこ。

築年数が同じはずなのに、賃貸住宅はヨゴレ放題、落書きも多く、ゴミも散乱していました。
一方、分譲住宅の方はすごくキレイで、掃除も行き届いていました。つまり住人が、きちんと管理していたのです。

それを見て、私は賃貸住宅(他人の物)を借りる人と、分譲住宅(自分の物)を使用する人は、おのずと「自分の物」に注意を置くのではないかと素朴に思っていたのです。
人は「自分の物」は大切にして、「他人の物」はぞんざいに扱う。だから、善管注意義務という概念を聞いたとき、「何かおかしい」と思ってしまったのです。

それを師匠に伝えたら、「松本君、その視点はすごく面白い!」と言われました。
もちろん、私のこの発想は、ただの屁理屈でしかありません。しかし、「他人の物」と「自分の物」の区別やその境界線はいったいどこに敷くべきなのか、そもそも県営住宅というのも名義は神奈川県の物だけど、私は神奈川県民な訳で、私の物でもあるわけで…と考えていくと、私がいま争っている県立高校跡地の県有地の売却差し止めの訴訟にも絡んで、ややこしい話になります。

私は別にこの善管注意義務について論文を書くつもりはないし、今の一般的な法解釈は正しいと思います。ただ、私が素朴な疑問を口に出して、その発想を学生の戯言とせずに、教授が真剣に話に乗ってくれたのがすごく楽しい思い出となっています。
そう、このやり取りこそが、大学院の面白いところなのではないかと思うのです。

これが資格試験予備校であれば「善管注意義務ってのがあって、これは義務を負うべき者が…」なんて話でおしまいになるところですが、大学院では「我々が学んできた善管注意義務そのものの定義がおかしいのではないか」という発想が許されるのです。

以前、政治家の小沢一郎さんの勉強会に出席したとき、小沢さんが「日本国憲法には、内閣総理大臣以下の閣僚が全員死亡したときの手続きが書かれていない」と指摘したとき、私はハッとしました。そうだ、確かにそこはおかしい!…と思いました。憲法改正はいつも前文や9条が問題になるけど、この手続きがきちんとなされていないという点はきちんと認めて、改正論議を検討すべきと考える人の意見も尊重しなければいけません。

私が修士論文で書いたサイバースペースにおける証拠調べは書証か検証かというネタもそう。それまでは書証説が有力だったけれど、その後は夏井高人教授(明治大学・元裁判官)の検証説が有力になりました。(私はちょうどその過渡期に修士論文を書いた)

決まりきったこと、常識的なことに疑問を抱き、それを口にすること、文章にすること、発表の場できちんと述べるスキルが鍛えられる場が大学院なのではないかと思うのです。


3.指導教授や大学院生に求められるスキル

こうして考えてみると、そもそも「研究」というのは、今までに無かった概念を作り出したり、既存の概念を覆すことに意義があります。

「そんなことできるはずがない」というものをやり遂げること、「そんなの非常識だ」と思われたことを常識に変えることこそが研究の真骨頂なのであります。

もちろん、そういう研究の裏側には、「いろんな検証を受ける」という手続きを要します。
学位論文であれば指導教授の指導を経るとか、査読を受けるといったものです。学会誌などに投稿すれば、その論文や研究無いように疑義があれば、適正な手続き(反論・反証)によって真偽を問われることになります。
そしてこの手続きは大学院に限ったことではありませんよね。
世の中に起こっていることのたいていはこのプロセスによって、その正確さを問われます。
だから、きちんとした検証も論証もされずに発せられた言質を真に受けてはいけないのです。匿名の人物が発したツイッターや掲示板の発言などはその最たるものですね。

どこかの大学教授がツイッターで有名なくだりで、「放送大学を卒業して教授になっている人がいるけど、これってありですか? 本当の大学を卒業していない。大学というもの自体を理解していない」なんてことを、当の放送大学学長に匿名で言い放ってしまい、炎上したこともありますね。
しかし、放送大学の卒業生がダメである理由について、検証可能な事例を並べ、論理的に述べ、実名で個人的意見としての説明していれば、正しい批判にもなり得たわけです。
匿名で、検証不可能・特異な事例を並べて他人・他大学を中傷し、その中傷した本人が実は大学教授だったというのが恥ずかしい話なのです。

つまり、指導教授は学生の持つ、既存の概念をうち崩すような発言や発想を、根拠無く摘み取ってはいけないのです。摘み取るのであれば、きちんと論理立てて、先行研究や議論の上でやるべきなのです。
よって、学生は信頼できる指導教授の下で、自由な発想を述べ、積極的に議論すべきで、議論を挑まれた教授は、学生のやる気を損なわせない範囲で議論に胸を貸すべきなのだと思っています。
教授にはこうした学生に付き合うことのできるスキルが必要で、学生はまともな議論で対抗してくる教授に挑むスキルが必要なのではないでしょうか。


4.現在の大学・大学院に妥当な作法を教えるスキルはあるのだろうか

この記事は、私が受けてきた大学教育、大学院で受けた教育をベースに述べています。だから、妥当かどうかなんてことは、あくまで私個人の独断と偏見に満ちた指標でしかありません。
しかし、たくさんの大学・大学院を見てきた人なんてさほどいないだろうし、それが妥当か否かなんて、正しく評価することなんてできないと思います。

だから、わずかな時間で「大学教育はこうあるべきだ」とか、「最近の大学生はレベルが低下している」なんて語っている人を見ると、苛立ちを覚えるのですが、まぁそれは置いておきます。

そもそも、最近の大学はそのカリキュラムの中で、ある学術的な事項についてしっかり書籍や論文を読ませ、一定の分量の文章を書かせる訓練をしているのでしょうか。学生が教授と直接話ができる機会は講義の合間かゼミくらいしかないと思いますが、学生が自由な発想を口に出した時、既存の概念や常識で無下に打ち消していないでしょうか。
脳科学者などの話を聞くと、人が疑問を抱いた瞬間がもっとも脳が活性化すると言われていますが、教育を施す立場の人たちは、それを打ち消すようなことをしていないでしょうか。

よくある予備校での教育に「それは入試に出ないから勉強しなくていい」という指導法があります。確かに予備校の使命は試験に合格させることですから、それは致し方ないのですが、大学において学生が疑問を口にした時、「それは違う」、「資格や単位に関係ない」と批判し、疑問を持つこと自体を批判してはいないでしょうか。
疑問を抱くことそのものを批判された学生には、もう匿名の掲示板や実名を出さなくてよいSNSしか疑問を出せる場所が無くなってしまうのではないかと思ってしまいます。

数年前、私はある大学教授が発表した文章に疑問を抱き、メールで質問したところ、論点をずらした説明しかなされず、とても残念に思いました。私の疑問は教授の誤りを指摘するものだったのですが、まぁ、教授も非を認めたくないのだろうと思って放置していたところ、数ヶ月経ってから、執拗な嫌がらせを受けました。教授は自分の理論に対する疑問を人格批判として捉えてしまったのかもしれませんが、その嫌がらせは続きました。教授は、とある大学の外部評価委員を行うくらい、著名な方なのですが、私にしてみれば、とんでもなく卑屈な方であります。こういう人が大学にいるべきではないと思っていて、いずれ当該大学の学長に直接抗議することになりそうです。なぜなら、自らの研究を批判されて、正々堂々と反論・訂正できない男だからです。

まぁ、こういう教授は別にしても、疑問を抱いた学生の話を聞かないとか、自分の不勉強がバレることを嫌がったりして、面倒くさがって説明しないなんてことが多いのではないかと思うのです。実際にいますよね。

そもそも、大学は落ち着いて学ぶ環境ではないという批判も多くあります。
昨今、特に私立大学は授業料収入の落ち込みを懸念して、とにかく学生を増やそうとします。AO入試や推薦入試が増えているのはその証左だと思いますが、一般入試よりも附属や推薦枠を拡充してとにかく学生を確保しようとします。するとおのずと大学進学率が上がってきます。
大学進学率が上がってくると、高校生は否が応でも大学に進学するよう周囲から勧められます。だって大学へ進学するのが多数なのだから、進学しない少数に居続けるって、心理的にストレスを感じますよね。
しかし、昨今は経済的に困窮する家庭が多いため、学費を捻出するためには貸与型奨学金に頼るか、アルバイトを強いられます。勉強よりも学費を稼ぐことが中心の生活になってしまいます。
そんな中で大学3年の後半くらいからは恐怖の就職活動を行うことになります。それも、大学を出ていれば圧倒的に有利ならともかく、何十社も受けてどれもダメという恐怖が付きまとうのです。
一方、大学は教授や准教授などの正規教員を増やすと人件費が高騰するので非常勤講師の割合を増やすことになります。非常勤講師は収入が少ないから、講義のコマ数を稼ぐためにあちこちの大学へ飛び回らなければならず、時間の制約上、学生の疑問になんか答えることができません。
そもそも学生自身、アルバイトや就職活動などで落ち着いて勉強できないのだから、疑問はそのまま放置するのが得策で、楽しく学ぶどころではなくなってしまいます。

こんな状況を見てみると、今の大学はきちんと学ぶことができないようになってきているのではないでしょうか。
卒業論文を課さない大学の割合が増えていることから見ても、この状況は深刻化していると思います。

そう、実は私は大学という教育機関は既にオワコン(=終わったコンテンツ)なのではないかと思っています。大学教育そのものに関わっている訳じゃないから軽々しく言えてしまうのは申し訳ないのですが、全ての大学とは言わないけれど、AOや推薦の割合を増やし、一般入試の枠を狭めて合格偏差値を上昇させてブランド化を図る大学など、卑しい商人がやりそうな商法じゃありませんか。
少子化の影響で若者が減っている現在、本来的には4年制大学という、膨大な助成金を必要とする教育機関は、縮小・縮減させていくべきなのではないかと思うのです。

大学をオワコンなどと批判しつつも、私は大学が好きです。お世辞抜きで、指導教授に恵まれたと思っています。
不勉強を叱られたりもしましたが、私の発想や疑問を無下に批判することなく、それをどうすれば論文になるか、かなり細かく指導していただきました。だから、私にとって、良き大学教授は、学生の発想や疑問を大切にしてくれる教員のことだと思っています。
そんな出会いがある場所が大学であり、大学院なのだと思っています。

やはり大学の数は増え過ぎだと思います。4年制大学の半分くらいは2年制の短大にしてしまうくらいがちょうど良いのではないでしょうか。そして優秀な卒業生であれば、容易に大学3年次に編入できるようにするというのが無難ではありませんか。

なぜか高等教育を論ずる研究者は、自分たちの職を案じてしまうせいか、ここの部分に言及する人が少ないですよね。私もどこかの大学教授だったらそういう発想になってしまうかもしれませんけどね。

社会人大学院生のススメ―働きながら、子育てしながら博士・修士 [単行本] / 稲垣 諭, 長沼 貴美, 如月 真実, 木村 知洋, 宮子 あずさ, 渡辺 治 (著); 松本 肇 (編さん); ぼうご なつこ, 氏ムシメ (イラスト); オクムラ書店 (刊)
社会人大学院生のススメ―働きながら、子育てしながら博士・修士

posted by まつもとはじめ at 02:40| 神奈川 | Comment(2) | TrackBack(0) | 高等教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私もたまにネット上に大学の卒業論文がupされているのを見ることがあるのですが、確かにレベルは???のものが多いです。

例えばhough変換(40〜50年ほど前に特許が取られた直線を検出するアルゴリズム)をC言語で組みました、できました。とか

画像を回転させるプログラムを組みました、できました。とか

GIMPとImageJ(フリーの画像処理プログラム)の機能を比較しました、とか

素人の私から見てもかなりレベルを疑うようなものが多く、また本来、個人個人で出すべき卒業論文を2人か3人の連名で出していることも多く、この人たちC言語の学習に卒業研究のほとんどの時間を費やしたのかな?とか

この人たち本当に情報工学の専門の学部で勉強したのかな?

と思うこともしばしばあります。たぶんこれらの論文を学位授与機構へ持っていっても不合格になると思います.

こういったケースは「卒業論文で留年させると後々就職に響くから」といった配慮で水準未達を承知の上で卒業させているのでしょうが、それを堂々とネットでupする根性には頭が下がります。

あと理系の大学院だと技術者として社会へ出すための教育という目的もありますね。修士の大学院生のほとんどが博士課程に行かず就職してしまいますので、、、

私自身の経験から言いますと、自分のアイディアを自由に実装して実験ができるようになるにはかなり時間がかかると思います。

私もこの年(50代前半)になってやっと放送大学大学院でそれができていると思う次第です。
Posted by tera at 2014年01月25日 21:46
teraさん

そう、そうなんですよ。

大学のレベルを量る時って、入試偏差値ばかりに目が行きますが、卒業研究・卒業論文の充実度等はまるきり無視されてしまいますよね。

マークシート方式の入試の偏差値が高等教育のランクを決定させてしまうというのが、何かおかしいのですが、やはり計測不能だからか、なかなか指摘されることが無いですよね(-_-;)。
Posted by まつもと at 2014年01月26日 04:50
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