2012年11月18日

マスコミは小沢一郎に謝罪したのか

tokyo-np-20121117-2.jpg
これは東京新聞11月17日の投書欄にあった、斉藤知英氏「小沢氏裁判報道反省を」の画像。

3年前、マスコミを通して陸山会事件のことを知り、「やっぱり小沢は汚い金を貰っていた、悪い政治家なんだな」と、極めて素直に感じた私だが、いろんな情報を通じて、この事件に対して疑念を抱くようになった。

(1)あれだけ政治資金はオープンにすべきだと唱えていた人が、なぜその政治資金規正法で検挙されるのか
(2)西松建設をはじめとする、多くの建設業者から、数千万円も貰えるほど、影響力のある政治家なのか
(3)なぜ検察は二度に渡って不起訴にしてしまったのか

いくらマスコミの報道をひっくり返して見ても、正直なところ、全く理解できない。

なぜなら、西松建設事件は、起訴事実になっていないのだからそもそも論外。
政治資金報告書に虚偽記載したといっても、単なる期ズレである。税金の申告と比べれば、明らかに修正申告で済む話だ。
商店でいう、「売り上げ除外」などではなくて、入金も支出も合っているけれど、それが数ヶ月ずれていたというだけの話。

なんでそれが東京地検特捜部の案件になってしまうのか、そして特捜が動きながら不起訴になってしまったのか。
不起訴なら不起訴でいいんだけれど、それをどうして検察審査会が「起訴相当」と判断できて、強制起訴に至るのかも理解できない。

検察審査会は、本来は警察や検察がいいかげんな捜査をして、その結果不起訴にした時に、「検察の職務怠慢」を戒めるために市民が起訴を指示するって仕組みである。
東京地検特捜部があれだけがんばった案件で、なぜ起訴相当が出てしまうのかもよくわからない。

そして前回、小沢一郎被告の一審判決で、「無罪」が言い渡された後のTBS「サンデーモーニング」で、ジャーナリストの岸井成格さんが「小沢さんはクロ!」と発言したのを私は忘れない。

なんでこの無罪判決に対し、岸井さんが「クロ!」と言えるのか、私はどうしてもその理由が知りたくて、石川知裕議員に直談判して陸山会事件秘書事件の一審判決の判決要旨をいただいた。
陸山会事件小沢事件については、ネットに転がっていたのを拾って読んだ。

ハッキリ言う。

判決要旨を最初から最後まで読んで、検察が主張したこと、弁護側が主張したことをきちんと理解した上での私の意見は、秘書事件も小沢事件も、どちらも当然に無罪にならなければおかしい事件。

「クロに近いグレーな無罪判決」と評価する人もいると思う。
しかし、あの判決要旨を読んで、あれが「グレー」などと言う人がいるなら、私はその人の日本語読解能力を疑ってしまう。
端的に言えば「バカ」か、「陸山会事件で小沢氏が有罪になってくれなければ困る人」であろう。

つまり、陸山会事件秘書事件(一審)については、判決理由部分は無罪を示しているのに、結論部分ではなぜか「有罪」としているのだ。
判決書きとはそんなものだといわれればそうかもしれないが、私からすれば、裁判官ともあろう人物が、判決理由で無罪の事件を、主文で「有罪」と書けてしまう、この裁判官は恐ろしいと感じた。

一方、陸山会事件小沢事件(一審)については、争点は3つあった。

(1)そもそも強制起訴に至った手続は妥当だったのか否か
(2)秘書らが行った行為は有罪に値するものなのか
(3)秘書らの行為が有罪だったとして、それが小沢本人が指示・了承(共謀)していたものなのか

結果として、(1)は妥当、(2)も有罪に値する、しかし(3)の共謀関係は無かったというのが小沢事件の一審無罪判決である。
しかし、そもそも(1)検察審査会が適正に機能したのかどうかが疑わしいし、(2)秘書らの行為は少なくとも禁固刑に当たるような行為ではないのだから、(1)〜(3)のいずれにおいても無罪と判断すべきであった。
ところが、いち裁判官が検察審査会の判断を無効と判断するのは影響が大きいし、秘書らの行為を有罪と判断している他の裁判官の判断を批判する訳にもいかない。
そこで、致し方なく、「共謀関係は無かった」と判断するしかなかったと読み取れる。

そして先日11月12日、小沢一郎被告は、東京高裁で公訴棄却を言渡され、あらためて「無罪」となった。

私はこの一連の事件について、少なくとも小沢一郎被告個人には、「グレー」などと表現できるところなどひとつもない、完全な無罪であると確信した。

同時に、石川知裕被告ら、元秘書3人に関しても、無罪という印象を抱いた。

もちろん、わずかとはいえ、「誤った報告書を作成したのだから」という理由で、落としどころとして罰金刑くらいは覚悟しなければならないかもしれない。しかし、禁固刑というのは執行猶予の有無に関わらず、やり過ぎ。

もしこの程度の書き間違いでも禁固刑というのであれば、世の中の経営者は税金の申告書を提出するに当たり、刑務所に入るリスクまで考えなければならないということになる。

「国会議員や議員秘書なんだから、ミスしたら当然に逮捕・起訴・禁固刑」なんてことがまかり通ったら、納税者も同じ目に遭うということだ。

「法の下の平等」とは、良くも悪くも、「同じミスを犯したら、同じ目に遭う」ということなのだ。


さて、虚偽報告書の問題をさんざん色眼鏡で分析してきたマスコミの人間。
特に、自ら判断して意見を述べることのできる人たちは、結果的に「虚偽報道」を行ったことになる。

まさか、「国会議員の虚偽は許せないけれど、自分の虚偽はスルーされるべきだ」などと思っていないことを祈る。

まずは小沢一郎氏の名誉を回復させるための検証報道が必要ではないか。
posted by まつもとはじめ at 03:23| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月03日

幸せな進学とは何か

私が小学校の頃から納得できないというか、ずっと疑問に思っていたことがあります。

「正しい進学とは何か」

私が小学校5年生だった時、同級生の一部の人たちが地元の中学受験予備校に通っていることに気づき、初めて「中学校というところは、自ら望み、金と学力があれば地元の公立中学校へ進学しなくてもいい」ことを知りました。

そんな選択肢があるなんてこと、全く知りませんでしたから、がぜん興味を持ちました。

しかし、話を聞けば聞くほど頭にハテナマークが灯ります。

「ナントカ大学附属中学に進学すれば、ナントカ大学にエスカレーターで入学できる」
「ホニャララ高校へ進学すれば、中高一貫教育であの有名国立大学に入学できる」
「これからは競争社会だから、少しでも早く受験準備を整えていた方がいい」

こういう話を聞いて、私はすごく違和感を持ちました。

今、がんばってどこかの大学附属に入学したとする。そしてあまり勉強しなくとも、その大学に入学できたとする。そうしたら、大学生になってから困らないか?
今、がんばってどこかの有名進学校へ入学したとする。すると、自然と優秀になって、有名大学へ入れるようになるのか?
競争社会なのはわかるけど、早く準備を整えたから優秀になるって、ちょっとおかしくないか?

以前、「お受験は害悪」の記事でも述べましたが、私たちは他人に強いられる勉強は嫌なものだし、興味の無い分野について、点数が取れるというだけで努力をしようとは思いません。それでも進学校へ通っていれば、周囲ががんばって勉強するのを見て、落ちこぼれる恐怖感からそれなりの努力はするかもしれないけれど、面白いと思わないのに勉強に対する情熱なんてものは湧きませんよね。

ここで私の話。
私はいちおう法学部を卒業しています。大学院で、いちおう民事訴訟法を専攻しました。
わざわざ「いちおう」と述べているのは、好きで入学した学部だし、好きで選んだ専攻なのだけど、自信を持って研究をしたとか、大論文を書けるほどのスキルが得られたという訳ではないからです。
だけど、自分の大好きな分野を勉強したときは、試験に出るか出ないかに関わらず、とにかく全部勉強したし、穴があくほどテキストを読んだりもした。
大学院では別の教授から「松本君はあまり意味のないことばかりやっている」と批判されたことはあったのだけれど、指導教授からは「まぁ、せっかく入学したんだから、好きなことをやりたまえ」と言われ、民事訴訟法の論文をそっちのけで学校教育法や電気通信事業法を調べました。

その「無意味な研究」は、確かにほとんどが無意味に浪費されました。
2年で修了できる大学院を3年かけてしまったし、良い就職をした訳でもない。

だけど、私は自信を持って言えます。

「自分がやりたい勉強をした」……と。

だけど、無理強いされて、義務感だけで大学を出た人。とりあえず、修士を持っていなければ偉ぶれないからというだけで大学院へ進学した人。安定した職にありつくには大学教授がいいと思い、無理して博士を取った人もいるでしょう。
私の知っている人の中には、なんとか大学教授になったはいいけれど、その後、ろくに業績を出せないまま、いろんな人に軽蔑されている教員もいます。自分の能力が低いことを批判されたくないがために、必死になってライバルを叩くなんて人もいる。

私はふと思うのです。

本来、学問というのは、「いろんな分野のいろんな知識や考え方を収集して、その知識や考え方をもとに自分の考えを発表すること」ではないか。
この一連の作業を行うことができるのは、学校である必要はありません。自分の家、職場、図書館等々、どんな所属でも可能です。
ただし、大学という教育施設・研究施設が、高度に合理化されたシステムや制度を有しているため、研究の礎を築きたい人は大学を目指し、より研究を深めたい人は大学院を目指し、研究し続けることが可能な職に就きたい人が研究者(大学教員)を目指すのです。

すると、「ちょっと専門的な知識を持っていて、この知識や経歴を使って安定して食べていきたい人」、つまり「なんちゃって研究者」みたいな人は、本来的には大学へ来るべきではありません。そんな人が大学にいるだめに、研究をしたくしてしたくてたまらない優秀な人材がポストを得られないのです。

そこで私は問いたい。
大学で教員をされているみなさん、あなたは本当に研究がしたいのですか。
それとも、実は今までに投資した時間やお金を取り戻すべく、安定した職にありつきたいだけなのではないですか。


私は思うのです。
がんばって勉強すれば、大学院へ進学して、大学教授になれる。……なんて幻想を本当に信じている人、そして大学教授になった瞬間、研究することを忘れ、大学で権力を持つことに終始し、権威を振りかざして学生を従わせ、自分よりも優秀な研究者(ライバル)の粗を探すことに終始することになってしまうのではないでしょうか。

私の知っている限り、「がんばって勉強したぞ」と自覚・自慢している人に、優秀な研究者はいません。楽しい勉強を続けるために「がんばって金を貯めたぞ」という人はともかく、がんばって勉強したと自覚できてしまう勉強は、ほとんど身にならないはずです。
特に、「一生のうちで最も勉強したのは入試の時だった」と自覚している人は、もう学問が何たるかを語る資格が無いのではないか。

週刊誌に取材されるたびに、「最も良い進学とは何か?」と聞かれます。

期待される答えは、「文系なら国立大学の法学部へ行けば、公務員試験にも対応できるし、一般企業でもつぶしがきく」、「理系なら工学部を卒業して大学院へ行けば大手のメーカーなとに就職できる」……なんてものでしょう。

しかし、私はいつも「自分の適性に合った分野について、学びたいときに学べる学校が良い」と回答しています。

だってそうじゃないですか。
就職したいのなら、就職に特化した専門学校へ行けばいいのに、わざわざ大学で好きでも無い勉強をやる必要なんて無いでしょう?

世間体とか、一般論とかに踊らされて、「とりあえず四年制大学へ行けば安泰」とか、他人の目を気にして進学することほど、金の無駄遣いはないでしょう。

就職したいのに大学へ行って、就職できないことほど、バカらしいことはないでしょう?
就職できたとしても、最初から底辺社員要因となることがわかってて雇用されるって、きつくないですか?

「幸せな進学」……私の永遠のテーマとなりそうです。
posted by まつもとはじめ at 03:35| 神奈川 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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