2012年09月22日

いわゆる「お受験」は害悪


あまり優秀でない子どもに対し、熱心に教育したら、めきめき実力をつけていった。
その子は有数の私立の小・中学校に進学し、その後、あの有名な大学に合格した。
子どもは大学を優秀な成績で卒業し、あの有名な企業に就職し、幸せな人生を歩んだ。

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……これは、いわゆる「お受験」と呼ばれる、子どもの進学におけるサクセスストーリーです。
一般に「受験」と書かず、「お受験」と表記するのは、知識も判断能力も乏しい子ども自身の選択ではなく、親が主導して子どもの進む道を決定することからくるものと思われます。よって、高校や大学受験とは区別して、「お受験」とは小学校・中学校受験を指すものであると、私は勝手に定義します。

さて、こんな理想的なストーリーを得るために、お受験というものが必要なのでしょうか。
……というか、お受験の延長線上にある大学へ進学することで、本当に幸せな人生が送れるのでしょうか。
正直なところ、私は疑問です。

医者になるためには医学部へ行かなければなりません。だから我が子を医者にしようと思ったら、できることなら有名国立大、そうでないなら有名な私立の医学部へ進学させたいと思うのが親心。
国家公務員、特にキャリア官僚にとっては、我が子を国家公務員1種(総合職)に合格することはもちろん、合格してからの身のふりかたを考えれば、やはり東大か京大は出しておきたいと思うのも親心。

口では「人はみな平等」と言っておきながら、「やっぱり出た大学が立派じゃないと通用しないよなァ……」なんて考え、周辺の親が対策するのを見て、つい小学校の受験案内を見たり、中学受験専門の予備校を探したりしてしまいます。他人は低い位置での平等でも、自分や自分の家族は高い位置での不平等(勝ち組入り)を望むものですよね。その気持ち、わかります。

だけど、そのために、学業の資質の無い子どもに、過度な学習を強いて、その結果、どこかの有名私立小学校・中学校に合格したとして、その後の人生は本当に理想的なのでしょうか。何よりも、本人にとって幸せなのでしょうか。

私は「理想的な教育とは、個々人の向き不向き(得手不得手)をふまえ、レベルに応じた学習機会が与えられること」だと思っています。

スポーツを例に挙げてみたいと思います。
運動が苦手な子どもに、優れたスポーツトレーナーが付いたとします。
スポーツトレーナーがつくことで、合理的に基礎体力をつける方法を教わったり、フォームを調整することによって、子どもの身体能力は一定の能力まで向上させることができます。しかし、その後は本人の資質なり素質なりがものをいいます。どんなにスパルタ教育をしても、嫌いなことを好きにはなれません。まして、スポーツを職業にできる人などは、ごくわずかですから、子どものスポーツトレーニングは、あくまでも趣味程度にしておくべきで、プロを目指した訓練は、潜在的な能力を見出された子どものみにすべきであります。
このようなスポーツの事例を出すと、我々は経験則的に理解できるため、一般的には「素質・資質の無い人に無理して訓練しても一定以上の効果は望めない」という理解で正しいと思います。

しかし、これが「勉強」「学習」となると、不思議なもので、どんなに資質のない子どもでも、「やればできる」とばかりに、スパルタ的に教育を強いる教育方針があります。
とにかく試験問題で一定の得点をクリアすれば、または親子面接でマニュアル通りの対応ができれば、そして何とか総合的に一定の得点をあげて入学を許可されれば、後はその学校が有名大学まで導いてくれるはずだというものです。
この入学までの道のりをクリアするための準備が、いわゆる「お受験」と呼ばれるものだと思います。

さて、この「お受験」ですが、これが理想的な教育なのか、私にとっては大いに疑問です。

お受験をして進学した末の大学選び
私の小学生時代の同級生数人が、有名な私立中学に進学しました。その後、20歳の時にクラス会が行われ、私立中学進学組の彼らが実際に入学した大学を聞いて驚きました。
具体的な大学名を出すとナンですが、偏差値的には私の卒業した神奈川大学(法学部で55くらい)よりも下です。
あれだけ小学校時代から予備校に通い、受験対策を行ってきたのに、塾や予備校に行ったこともない私よりも偏差値が下の大学です。
「有名な大学へ行くために、早期に高度な教育を行って将来に備える」というつもりが、なんとか大学へ行ったものの、特別すごくなかった。
これって何のためのお受験だったのでしょうか。

無理して大学附属高へ入学しても疲弊
私の親戚にも一人、大学進学を夢見て、私立の中学、大学附属の高校に進学していながら、結局その大学には進学しなかった人がいます。彼は高校までのつらい勉強で疲弊してしまったため、18歳となり、自己決定権を主張できるようになってからは、親が何といおうと、大学へは進学しなかったのです。
「何はおいても大学へ行かせたい」と思うがあまり、必死に尻を叩いて大学附属に進学させたものの、結局は勉強嫌いになってしまう。したくもない勉強を強いられるつらさを知ってしまった人は、社会人が大学へ行きやすくなったとしても、二度と学問には関わりたくないと思ってしまうのだと思います。

有名私立小学校へ入学しても
私が大学時代にアルバイトしていた横浜の補習塾では、有名な私立の小学校に通う子ども(Y君)が通っていました。別にうちの塾の教育が良かったのではなく、もともとY君は成績優秀だったため、「優秀なY君が通っている」という評判から、その同じ小学校の児童数人が通塾していました。
Y君はものすごく優秀で頭の回転も早かったのですが、その同級生らは明らかに学業に対する適性は無いように見えました。同級生のうちのひとり、W君の保護者と面談すると、子どもの成績が伸び悩んでいることに対し、母親は教育ノイローゼとでも言わんばかりの状態に見えました。
面談の中で、「学校よりも先行して学習させたい」と、かなり無茶な親の意向を告げられたことがあります。基礎的なことがわかっていないため、「そりゃいくらなんでも無理」と回答したら、塾をやめてしまいました。
私の目には、教育費に多大な出費をして有名私立小学校に合格させたこと、そして親戚や近所の評判の手前、もう後には引けなくなったという危機感を抱いているようにも見えました。「W君はあの有名小学校に行ったのに、中学は公立だった」なんて言われては、沽券にかかわるというところでしょうか。だからといって、九九ができない子どもに3桁の掛け算は教えられませんから、先行学習は無理という、我が塾の判断は間違っていなかったと思います。

有名大学合格歴が人生の拠り所
一方で、なんとかお受験が成功し、私立中学・私立高校の進学をして、予備校にも通って、某有名私立大学に合格した知人がいます。彼はその合格の事実を、まるで勲章のようにして生涯の自慢としています。大学を卒業してまる20年が経とうとしているのに、彼を知る知人から「あいつはいまだに大学入試の武勇伝を語っている」と聞きました。
しかし、残念ながら、彼は仕事では成功していません。機会があって、彼の話を聞くたびに、彼や彼の家族がの投じた学習時間と費用は何だったのかと思ってしまいます。少なくとも現時点では、高学歴であることを自慢をするための巨額の投資だったということになります。

こうして見てみると、「お受験」というのは、実にリスキーな投資であることがわかります。
高額な教育費を捻出できる、裕福な家庭の子どもであったとしても、幼少期の遊びたい盛りの機会損失は計り知れません。これが一般の家庭で、少ない収入の中から、有名大学への進学を目指して教育費を捻出するというのは、負担も大きければその分期待も大きいものです。人並みの成績しか取れない子どもが無理に勉強させられたらどうなるでしょうか。

有名な私立小中高校に合格しても、その先、有名大学へ行けるとは限らない。
有名大学へ行けたとしても、その後、やり甲斐のある職・業務に就けるという保障も無い。


私は義務教育修了時の、全ての15歳が、中学3年の全ての科目において5段階評価で2以上の学力を身につけている必要はあると思います。しかし、資質もないのにそれ以上の勉強を強いられるというのは、良くないと考えます。

その一方で、努力らしい努力をせず、勉強が好きだから軽々と勉強できてしまうなんていう児童は、それこそ奨学金を給付してでも、飛び級をさせてでも有名大学へ続く道を歩ませるべきだと思っています。
そして無理な努力をしなければ大学へ行けないような人は、早めに適性を見定めて、苦痛の伴う勉強から解き放ってあげるべきではないかと思うのです。
食えるかどうかは別にして、芸術や芸能に適性を見出す人もいるでしょう。ナンバー1にはなれなくても、ナンバー2で手腕を発揮する人もいるでしょう。既存の学問ではカバーされていない分野に興味を持って、とんでもない能力を身につける人もいるでしょう。

苦痛とインセンティブ
さて、私は、大して優秀ではない生徒(学業に対する資質のない人)が、苦痛の伴う勉強をして、有名大学へ行くのは反対です。
人は苦痛を伴えば伴うほど、インセンティブを求めます。

勉強の好きな人は、本を読んで知識が頭に入ってきて、何かがわかることが快楽に感じます。つまり、知識の獲得そのものがインセンティブです。

しかし、勉強の嫌いな人は、その苦痛を伴う代償として、有名な大学へ入学できること、偏差値や点数を獲得できることがインセンティブであり、その結果、自分が入学した大学よりも下位とされる大学の学生をバカにしたり、17〜8歳の時に記録した模擬試験の結果を生涯の自慢としてしまいます。

学歴と地位や収入は直結しない
旧司法試験の時代。法律学が好きで好きで仕方のなかった私の知人は、勉強らしい勉強をしなくても、基本書を2〜3回読むだけで理解できるという才能を持っていました。国立大学へ進学する受験スキルは無く、彼が行った大学は中堅私立でしたが、ちょっとした受験テクニックを勉強しただけで、弱冠20歳で司法試験に最終合格してしまいました。もしこの知人の親が、「医者を目指せ」と言っていたらどうなっていたでしょうか。まぁ、医師としても成功したかもしれませんが、少なくとも彼は大学名にこだわらず、自分の好きなことを勉強したら軽々と司法試験に受かってしまったという訳です。彼は裁判官になりましたが、現在は退官して弁護士として活躍しています。

また別の知人は、何の取り柄もないと思われた男でしたが、交際していた女性の使っていた化粧品に興味を持って、小さな化粧品会社を立ち上げたところ、わずか数年のうちに年商1億円の会社に成長してしまいました。まだまだ伸びそうです。個人年収を聞いたら、具体的な金額は教えてくれませんでしたが、「大学の准教授の平均よりも多い」とのことです。高卒が大学准教授以上ですか。なるほど(^^;)。
彼は高卒ですが、私が放送大学で学んでいるのを見て、面白そうだからという理由で放送大学に入学しました。彼は5年かかってやっと40単位を修得した程度ですが、「放送大学の勉強は面白い」と言っています。

こうして見てみると、能力を有している人は、別に大学で学ばなくても優秀だし、あまり勉強しなくても目指す大学へは軽々と行けてしまう。むしろ、大学を目指すよりも、その先のことを考えているのだから、大学の名前なんかどうでもよくて、自分に都合の良い勉強だけして、どんどん先に行ってしまうものなのです。


こうして考えてみると、私の拙い人生経験による経験則ではありますが、「お受験」は人間の生育過程において、害悪しか生まないのではないかと思ってしまいます。
もちろん、お受験を経ることによって、人生の早い段階で優秀な人に接する機会はあるというメリットはあるかもしれません。東大へ行った人が「東大人脈」なんて自慢するくらいですから。
だけど、受験勉強にばかりウェイトを置いて、幼少期から点数と他人との比較(偏差値)に気を取られるあまり、興味を持つかもしれないことに出会えないというのは不幸なのではないかと思うのです。

学問に対する適性が見出せないのに、「やればできる」、「努力すれば優秀になれる」と思うあまり、無理に勉強させるというのは、いかがなものかと考えています。
すると、やはり「お受験」に始まる自分の適性に合わない進学行動は、害悪でしかないのではと、私は考えてしまいます。

何度も言いますが、この記事は、あくまで私の経験則に基づく仮説であります。
議論はのぞむところですが、具体的なデータを収集して出した結論ではありませんので、その旨、ご了承ください。
posted by まつもとはじめ at 02:18| 神奈川 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 教育問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする